上総 成東城(山武市)

本丸虎口前の土橋

千葉氏一族の成東氏の居城?、東金酒井氏の城?

別名

鳴戸城、鳴渡城

所在地

千葉県山武市成東(成東城址公園)
JR成東駅の南西1km弱で、成東小学校のすぐ北の山

形状

平山城

現状・遺構等

現状:成東城跡公園、宅地、テニスコート等
遺構等:曲輪、土塁、空堀、土橋、虎口、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2009/03/01

歴史等

当地に勢力を張った千葉氏の家臣印東四郎により、応永年間(1394~1428)に築城されたと伝わる。
その後成東城は一時廃止されたが、享禄3年(1530)、千葉勝胤により再興され、第5子胤定が入り、成東八郎を称したと伝わる(尚、 城主は東金酒井氏であったとする説もあるようだ)。
天正18年(1590)、小田原の役の際に成東城も落城した。
徳川家康の関東入封後は2万石をもって石川康通が入封した。康通は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の功により3万石を加増され、翌6年 (1601)美濃大垣城へ転封となり、 その後へ青山忠成等が入城した。
元和6年(1620)青山氏が武蔵岩槻城に移封され、 成東城も廃城となった。
『「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」、「フリー百科事典・ウィキペディア(Wikipedia)」他参照』

現況・登城記・感想等

成東城は、現在成東城跡公園として整備されている。
城跡は一部富士見台団地となり宅地化されているが、愛宕曲輪(推定本丸)・城之内曲輪(推定二の丸)部は比較的良好な状態で残っている。 特に、愛宕曲輪(推定本丸)虎口周辺の土塁・空堀・土橋は結構見応えがある。
また愛宕曲輪(推定本丸)や城之内曲輪(推定二の丸)からは成東市街が一望できる。
(2009/03/01登城して)

ギャラリー

全景
城址の東から撮影。

城跡公園
成東城址は富士見台団地の南に「成東城跡公園」として整備されている。車は、 この辺りの隅に置かせてもらったが、ここを右へ入って行くと三之丸跡にテニスコートがあり、そこの駐車場にも置けそうだ。写真右の階段上が 「城之内曲輪(推定二の丸)」である。

堀底道
上写真の左側の堀底道を入って行くと堀底道になっている。堀底道を途中、左(写真中央左) へ入って行くと本丸方面。両側の石垣は、当然公園化したときのものであろう。

本丸虎口の土橋
上写真を左へ曲がると、本丸への土橋が見えてくる。なかなかの光景だ!

土橋左側の空堀
土橋両側の空堀は結構規模も大きく、深さ3m、幅7~8mほどであろうか?この左(北)側の空堀は、 本丸を取り囲むように右(東の方へ廻っている。また、右(南)側の空堀は南急斜面の崖へと続いている。

本丸土塁
本丸は西側から北側にかけて高さ2~3mほどの土塁が巡っている。

愛宕曲輪(推定本丸)
本丸には愛宕神社が祀られ、縄張図と曲輪の説明等がある。

搦手口?
本丸の西側には虎口があるが、搦手口であろう。西側にも低いものの土塁跡らしき凸地があり、 往時は土塁があったのであろうか?また、虎口の向こうには削平地があり、腰曲輪か笹曲輪だったのかな?この虎口から右(南) へ降りて行くと本行寺へと出るらしい。

本丸からの眺望
本丸や二の丸から南方面は眺望がよく、成東の市街地が眼下に広がる。

㊧城之内曲輪(推定二の丸)、㊨二の丸北側の土塁
二の丸北側には土塁が築かれ、土塁西端(右写真奥)は一段高くなっているが、櫓でも建っていたのだろうか?
 

二の丸西側の空堀
二の丸は西側にも空堀が掘られている。

三の丸
三の丸は、ほとんど取り壊され、テニスコート等になっている。 南側から西側にかけて土塁のようになっていたが、右写真の土塁は、どうやら公園化したときのものらしい。
 

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