安房 白浜城(南房総市)

西遺構西端の切通し

安房里見氏が最初に拠った城

所在地

南房総市白浜町白浜
【登城口への行き方】
登城道は、山の中央部(西遺構と東遺構の間)山麓にある青木観音堂脇から登る道と西遺構の最西端の切通しを展望台経由で登って行く道がある。
(青木観音堂脇)
細い道が入り組んでいて、上手く説明出来ないが、白浜の町の北に聳える城山の山麓へ向かうと、何箇所かに「弘法の芋井戸」 への標識が建っているので、それに従って行けばたどり着く。「弘法の芋井戸」の左(西)20mに観音堂、右(東)80mに青根原神社がある。 青根原神社の前に駐車場(多分、神社の駐車場だろうと思うが?)がある。
(展望台コース)
町中のあちこちに案内板があるので、すぐ分かると思う。但し、駐車場はなかったように思う。

形状

山城(標高140m)

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:曲輪、切岸、切通し、土塁?、堀切?、土橋?、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2009/06/14

歴史等

白浜城については、
①白浜は、中世東国の太平洋海運にとって極めて重要な地で、関東管領上杉氏が、太平洋の海上交通を押える拠点にしていた。
その為、鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏が対立した「享徳の乱」において、 安房地方を上杉氏から奪う為に公方派から送り込まれたのが、安房里見氏初代の里見義実である。
そして、義実が最初に拠った城が白浜城である。
②永享12年(1440)~嘉吉元年(1441)の「結城合戦」 で結城城に立て籠もり、 討ち死にした里見家基の嫡子・義実が三浦半島経由で安房に渡り、神余・丸・東条・安西の四氏が分立する安房一国を平定した。
最初、義実は安西氏に身を寄せていたが、神余氏の家臣で主君・神余景貞を討ち神余郷を乗っ取った山下定兼討伐し、さらに、 その遺領分配をめぐって対立した丸氏を滅ぼした功により、安西景春に白浜城を与えられた。
その後、安西氏にも背いて、勝山城に安西氏を攻め降伏させ、 金山城に拠る東条常政も滅ぼして安房一国を統一平定した。
という2つの説があるようだが、今は①の説が有力なようである。
いずれにしても、房総里見氏の初代義実が白浜城を拠点に勢力を拡大していったようである。
その後、稲村城が安房支配の拠点となってからも、 隠居した義通が白浜城に入り、稲村城の義豊を支える重要な役割を持ったようである。
また、義豊が滅びて、庶流の里見義尭が実権を握ってからも、白浜には里見氏嫡流が住み続けていたと考えられている。
今も、白浜城跡周辺には、里見義通の兄である里見義富の子孫という里見氏や、 前期里見氏の重臣だった木曽氏の子孫と考えられる人々が住んでいる。
『「房総里見氏(NPO法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム刊)」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「現地説明板」参照』

【享徳の乱】
8代将軍足利義政のときに起こった関東地方における内乱で、享徳3年(1455)~文明14年11月27日(1483))まで続いた。
鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺した事に端を発し、幕府方、山内・扇谷両上杉方、鎌倉公方(古河公方)方が争い、 関東地方一円に拡大し、関東地方における戦国時代の遠因となった。
【結城合戦】
永享の乱」の翌年、結城氏朝が持氏の遺児春王丸・安王丸・ 永寿丸を擁して挙兵したが、嘉吉元年(1441)4月、攻防8ヶ月の末、結城城は陥落した。 春王丸と安王丸は殺されたが、まだ8歳と幼かった永寿丸は美濃の守護土岐氏に保護された。
【永享の乱】
鎌倉公方の初代は、足利尊氏の四男基氏で、以降、氏満、満兼、持氏と続く。
持氏のとき、京都では5代将軍義量が亡くなった。前の将軍義持には義量のほかに男子がなく、義持の弟4人は出家しており、 将軍位が空位となった。
将軍位を狙った持氏は、義持に急接近をはかったが、相手にされず、将軍には結局義持の弟4人が「クジ引き」で決めることになり、青蓮院義円 (6代将軍義教)となった。
持氏は激怒し、将軍就任の祝賀会にも使者を送らず、年号が正長から永享に変っても新年号を用いないなど、幕府の指令は一切無視し、 将軍家との亀裂は決定的となった。そればかりか、持氏暴走を諫める関東管領上杉憲実とも対立するようになった。
永享10年(1438)憲実は身の危険を覚え、本国上野に逃れた。憲実は幕府に救援を求めると、将軍義教は大軍で鎌倉を攻めさせた。そして、 翌年2月持氏と子義久は自殺し、鎌倉府は4代90年余で壊滅した。

現況・登城記・感想等

白浜城は、東西約1km、南北約400mあり、東遺構・西遺構・城山北遺構の3つに区分される広大な城域をもち、 房総の中世城郭跡でも最大級の規模を誇る。
西遺構は尾根伝いに遊歩道が整備されているが、東遺構と城山北遺構は、ほとんど整備されておらず、この入梅の季節は、藪がひどく、 とても入って行けそうにないようだ。
白浜城の特徴は、その腰曲輪の数の多いことであろう。木立の合間から、やたらと多くの腰曲輪が見られる。ただ、 かつては段々畑として利用されていたこともあり、また戦時中には日本軍の軍事施設として改変もされているそうなので、 それらが往時のものかどうかは分からない。
一方、南面は切り立った崖で、まさに天然の要害であったことが分かる。
当城で、最大の見所は、西遺構の東西にある岩盤をくり抜き、ノミの跡(東の切通しは暗すぎて見えなかったが)が荒々しく残る切通しであろう。 東の切通しで高さ5m、西の切通しにいたっては高さ7~8mほどもあろう。まさに、迫力満点である。 
これだけの切通しを、往時の技術で削り取ることができたのだろうかと疑問を感じるざるを得ない。やはり戦時中の軍によるものだろうか?
尚、城山からの眺望は、本来素晴らしいのだろうが、いかんせん曇天と靄で・・・(残念)。
そして、何よりも残念なことに、あまりの暗さで、切通し等ほとんどの写真がピンボケ(泣)。
(2009/06/14登城して)

ギャラリー

㊧青根原神社、㊨里見氏二代成義の墓
㊧青根原神社のある辺りが、居館跡のようだ。背後の山が東遺構。神社の前の道を挟んで駐車場がある。 ㊨神社前(左写真の左側)には、里見氏二代成義の墓がある。説明板によると、以前は荒れていて五輪塔の一部しか残っていなかったと言うが、 現在では立派な墓が建てられている。
 

登城口
登城口は2箇所あるが、今回は、青木観音堂の横(右の道)から登城し、西遺構の尾根を通って最西端の登城口へ降りていった。

登城道
登り始めると、登城道は、どんよりした曇天のせいと、鬱蒼とした木々のため、薄暗いどころか、 まるで夜中のような暗さだった。その暗い急坂道を登っていくと、切岸が見えてくる。
 

切通し
さらにジグザグ道を登ると、高さ5mもある岩盤を削った迫力のある切通しへと出る。
 

切通し最上部(虎口)
その切通しを少し登って行くと尾根上へ出る。それにしても、ピンボケの写真が恨めしい!

西遺構方面への道
尾根上に上がると、道は二手に分かれる。右手の尾根道は東遺構方面、さらには稲村城跡へと続く道であるが、 藪のためギブアップ!
左方面は西遺構への道で、よく整備されている。その道を進み階段を登って行く。

物見台跡?
よく整備されたジグザグの階段を登ると、左手上に最初の頂部がある。。ここは曲輪跡というには狭すぎるので、 物見台跡か戦時中に軍部が物見に使った跡だろうか?何か分からなかったけど、石組みがあった。ここから、南側下を覗くと、 足が竦むくらいの絶壁だった。
 

㊧簡易展望台、㊨眺望
物見台?下の道を、右下に腰曲輪のような削平地を幾つか見ながら、さらに西へ進むと、もう一つの頂部へ出る。 ここには、簡易展望台が建てられている。ここから南側には白浜の町並みと、その向こうに海が眺められるが、あいにくの曇天と濃い靄で、 右写真のとおり・・・(残念)!
 

土橋?
そこから尾根伝いに北側下に降りていくと、道が細くなりカーブした土橋になる。

㊧二重堀切?㊨土塁
㊧土橋の向こうには、2ヶ所ほど、溝のような窪みが走っているのに気が付く。 堀切と言うには余りにも規模が小さいので、遺構なのかどうかもよく分からない。㊨二重堀切?の先には5m×8mほどの小曲輪があり、 その脇には削り残しの土塁が見られる。右写真の左側がそうである。しかし、この土塁は何の為の土塁なのか分からない。 土塁で守るべきスペースはほとんどない。
 

土橋
簡易展望台のある頂部下をぐるっと廻り、西の方へ進むとかなり永くて大型の土橋(土塁)へ出る。土橋下には、 はっきりとした腰曲輪が確認できる。この光景は、結構かっこいい。

㊧展望台、㊨展望台からの眺望
上写真の土橋を渡り、次の頂部下を廻り西へ進むと展望台へ出る。当然。ここも眺望は、曇天と濃い靄で・・・。 天気が良ければ最高の見晴らしだろうというのは分かる。
 

段曲輪
展望台を、さらに西へ進むと、左手に塁段になった腰曲輪が現れる。この辺りの腰曲輪は、 全てかなりの広さである。

最西端の切通し
左手に段曲輪を見ながら下りて行くと、岩盤をくり抜き、ノミの跡が荒々しく残る切通しへ出る。 写真の歩いている人と見比べて見て、高さは7~8mほどあるのではないだろうか?登城時に通った切通しと、この切通しが、 当城址の最大の見所であろう。切通しは、奥は右の方へほぼ直角に曲がっている。
 

㊧上写真の切通しを曲がり、振り返って撮ったものである。それにしても、見事だ。 ㊨左写真をさらに進み、遠くから撮ったものである。展望台経由コースから来ると、このような光景になる。
 

㊧登城口(展望台経由コース)、㊨南面の絶壁
㊧展望台経由コースの登城口である。写真奥を左へ曲がって入って行くと、㊨右上(南面)は、 50mはあろうかという絶壁で、当城が天然の要害であったことが分かる。
 

(西遺構)全景
こうして見ると、白浜城が如何に大規模な城であったかが分かる。この写真右側に、まだ東遺構があるのである。 左の頂上部が展望台で、右の頂上部が簡易展望台のあるところ。
左の道を進むと上写真の登城口へ出る。手前のような標柱が町の至る所にあるので、こちらの登城口は割り合い見つけやすいだろう。

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