常陸 水戸城(水戸市)

県庁三の丸庁舎前に残る空堀(中堀)

佐竹氏の本城、江戸期には徳川御三家・水戸徳川家の城

別名

馬場城

所在地

茨城県水戸市三の丸

形状

平城

現状・遺構等

現状;市街地(本丸は水戸一高、二の丸は水戸三高、三の丸は弘道館、庁舎等)
遺構:曲輪、空堀、土塁、現存薬医門(水戸第一高校内)、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2003/03/08
2008/04/23

歴史等

水戸城は建久4年(1193)、源頼朝から地頭馬場資幹がこの地を賜り、大掾に任ぜられたことに始まる。 後に常陸大掾に任ぜられ府中城 (現石岡市)に本拠をもったことから、水戸地方も馬場氏のほかに吉田氏、石川氏など大掾氏の族が栄え、馬場大掾氏は9代約240年間、 この地に居城した。
15世紀初め(応永年間)、藤原氏の族河和田城主江戸通房が馬場氏を追放し、 以来、7代165年間江戸氏が支配し、本城の外に宿城(のち二の丸、現在茨城大学附属小、水戸ニ中、水戸三高)を築くなど城郭を拡張した。
天正18年(1590)、太田城を本拠として常陸北半を領した源氏の族佐竹氏は、 秀吉の小田原城攻めに功績を認められると一気に江戸氏を攻め、水戸城を占拠した。こうして54万石を領する佐竹義宣の本城となり、 城郭も一段と拡張され城下町も太田から移された商人によって栄えた。
ところが秀吉の死後、義宣は石田三成と結んで家康に抗したため、慶長7年(1602)秋田への国替えを命ぜられ、 僅か13年間で水戸を去った。
その後は家康の子信吉、頼宣が一時封ぜられたが、慶長14年(1609)に第11子頼房が藩主(25万石、第3代綱條の時から35万石) となってから代々その子孫が継いだ。頼房は二の丸に居館を築き、三の丸を造り三重の濠と土塁を巡らして武家屋敷や町人街を整えた。
その後、水戸徳川氏は江戸定府ながら光圀(第2代)、斉昭(第9代)を経て昭武(第11代)まで約260年間、35万石の水戸領を治め、 明治4年(1871)に廃城となった。
『現地説明板より』

現況・感想等

城跡はあまり残ってはいないし、御三家の城という割には質素な城という感じがするが、さすがに、 もともとは佐竹の城だけあって土塁が実に美しい。今回は偕楽園梅園見物のバスツアーで来たので、城跡はあまり見ることが出来ず、 三の丸庁舎の西側の土塁と堀もバスの中から見ることしか出来なかった。近いうちに、また来ようと思う。
(2003/03/08見物後)

水戸城址へは久し振りの登城であるというよりも、前回は偕楽園梅園見物バスツアーでちょっと寄っただけなので、 今回が初めての登城と言った方が合っている。
まずは弘道館を見てから、本丸跡の水戸一高に移築され残っている水戸城唯一の建造物「薬医門」へと・・・。 弘道館正面の道を進むと堀切に架かる大手橋へと出る。堀切は今では道路になっている。
水戸一高(本丸跡)への入り口には土塁が残り、その手前の堀切は今では線路が通っているが、橋の上から見る堀切は、なかなか見応えがある。
薬医門は想定していたよりもかなり大きく、立派な門だった。
まだ朝7時になったばかりであったが、もう登校する生徒がちらほら・・・。その皆が、私に丁寧な挨拶をしてくれる。さすが、水戸一高生だ、 実に気持ちが良い。そう云えば、会社の先輩O氏は、確か水戸一高出身だったなあ。
次に、三の丸庁舎の西側の土塁と空堀を見に行った。この空堀は幅約30m、深さ約20mはあるであろう。土塁や空堀には芝生が植えられ、 綺麗であると同時に見応え充分である。北側にも空堀や土塁が残り、弘道館横まで続いている。こちらは、かなり埋っており、 規模はそれほどでもないが綺麗に手入れされている。
(2008/04/23登城して)          

ギャラリー

薬医門(水戸一高内に)
水戸城に現存する唯一の建造物であり、建立の時期は安土・桃山期と推定される。恐らく佐竹氏の時代 (1591~1602)に創建され、徳川氏に引き継がれたと思われる。
城門の位置については諸説あるが、風格からみて橋詰御門、即ち本丸の表門と考えられる。永らく城外に移されていたが、昭和56年9月、 この城門にふさわしい旧本丸の入口に近いこの位置に移築・復元した。その時に、部分補修すると共に屋根を元の萱葺から銅板葺とした。

本丸土塁(水戸一高入口付近)

本丸・二の丸間の堀切
水戸一高(本丸)手前の堀切は今では線路が通っているが、橋の上から見る堀切は、なかなか見応えがある。

弘道館の門

弘道館

御三階櫓(弘道館前の説明板より)
弘道館の前に説明板があり、太平洋戦争で焼失する前の御三階櫓の写真があった。 御三階櫓は天守閣の代用みたいなものだが、御三家の城のものとは思えないくらい質素(というよりチャチ)なものだ。

大手橋
佐竹氏城郭拡張によって二の丸、三の丸が築かれた時の慶長元年(1596)に架けられた橋である。明治元年 (1868)10月佐幕派が弘道館を占拠した時は、この橋を挟んで主力軍との間に内戦が起こった。昭和10年(1935) コンクリート造りとなった。

大手橋下の堀切
大手橋下の堀切は、今では道路が通っているが、この深い堀切跡はなかなか見応えがある。

【三の丸空堀】
県庁三の丸庁舎の西側には空堀が良好に残っており、北堀・中堀・南堀の3つに分かれている。 この空堀は幅約30m、深さ約20mはあるであろう。土塁や空堀には芝生が植えられ、綺麗であると同時に見応え充分である。
「北堀」

「中堀」

「南堀」

三の丸北側の空堀
三の丸庁舎の北側にも空堀や土塁が残り、弘道館横まで続いている。こちらは、かなり埋っており、 規模はそれほどでもないが綺麗に手入れされている。
 

偕楽園の梅(2003/3/8)

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