常陸 下妻城(下妻市)

新たに築かれた天守台風の土塁、上には「多賀谷氏遺跡碑」と彫られた石碑が

多賀谷氏の本城

別名

多賀谷城

所在地

茨城県下妻市本城町

形状

平城

現状・遺構等

現状:多賀谷城跡公園、市街地
遺構等:石碑、標柱、説明板

満足度

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訪城日

2007/06/24

歴史等

下妻城は、多賀谷氏初代氏家が現在の多賀谷城跡公園の一部に本丸を構えた。多賀谷氏は、当初、結城氏に属していたが、のちに自立し、 その後、隣国豪族を攻めて、その勢力下に置くほか、小田原北条氏政勢を撃退するなど、7代にわたり、 147年間下妻城主として常総地方に栄えていた。
慶長5年(1600)の時、7代重経は佐竹氏とともに西軍に心を寄せ、徳川家康の再三の誘いにも出陣しなかったばかりか、 家康が上杉攻めの為下野小山に屯営した時、家康を夜襲しようとしたともいう。この為、戦後の慶長6年(1601)2月、重経は追放され、 城も破却された。
城主追放の時、奥方始め姫、奥女中達は行末を案じて、ある者は懐剣で喉を突き、ある者は館沼に身を投げた。領民はこれを哀れみ遺体を集め、 三の丸の一画に合葬した。それが今に伝えられる美女塚である。
その後、徳川頼房(のちの水戸藩主) 、松平忠昌(のちの越前福井藩主) 、松平定綱(のちの桑名藩主) が短期入封した。定綱が遠江掛川に移封した元和5年 (1619)からほぼ1世紀幕府領となった。
その後、正徳2年(1712年)に井上正長が1万石で入封し、下妻城跡の西に陣屋が築かれた。
『「現地説明板」、「大名の日本地図・中嶋繁雄著(文春新書刊)」参照』

現況・登城記・感想等

下妻市役所のすぐ傍にあり、この城址も市街地化により、御多分に漏れず遺構は全くなし。
本丸跡が、多賀谷城址公園になっており、その片隅に天守台跡風の土塁が築かれ、その前に説明板、その上に「多賀谷氏遺跡碑」 と彫られた石碑が建つだけである。この土塁は当然後世というか、石碑を建てる時に築いたものであろう。石碑は旧主(多賀谷氏) を慕う家臣子孫が明治23年12月に建立したものだそうである。
(2007/06/24登城して)

ギャラリー

多賀谷城跡公園
本丸跡が公園になっており、 その片隅に天守台風の土塁(写真右)が築かれている。

公園入口すぐの所に建つ「多賀谷城跡公園」の石碑と「本丸跡」 の標柱

土塁
天守台風の土塁であるが、 この土塁は当然、後世というか、石碑を建てる時に築いたものであろう)

土塁上に建つ「多賀谷氏遺跡碑」 と彫られた石碑
土塁の上に、さらに小さな土塁が築かれ、その上に石碑が建っている。石碑は旧主(多賀谷氏) を慕う家臣子孫が明治23年12月に建立したものだそうである。

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