下野 皆川城(栃木市)

山麓から城址全景を

下野皆川氏代々の要害堅固な法螺貝城も、秀吉軍の前に陥落

別名

法螺貝城

所在地

栃木県栃木市皆川城内町699(公民館が建っている所が居館址、その裏山が城址)
皆川公民館:電話0282-22-1812

形状

平山城(標高147m、比高60~70mほど)

現状・遺構等

【現状】城址公園、公民館
【遺構等】曲輪、土塁、空堀、竪堀、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2007/06/03

歴史等

皆川氏は、小山氏初代政光の二男宗政が長沼氏の祖となった。その子時宗の長男宗員(むねかず)が、この地・下野国都賀郡皆川荘に居館を構えた。一方、二男宗泰は芳賀郡長沼郷を領地したが、6代宗行のときの正和3年(1314)奥州岩瀬郡(福島県)に移住した。
長沼(皆川)氏は、鎌倉の執権北条高時に背き、元享3年(1323)断絶したが、その70余年後の応永元年(1349)頃、先に奥州に移住していた長沼宗行の5世秀光が本家小山氏を頼って下野に戻り、その子秀宗が、永享元年(1429)頃、皆川城を築き居所とした。従って、重興皆川氏の初代は秀宗と云われている。
皆川城は、山の形をそのまま利用したもので、その形から「法螺貝城」とも呼ばれている。この皆川城を拠点にして皆川氏は漸次支配権を拡大し、子の氏秀の代には皆川荘50余領を領する戦国大名となった。氏秀の子宗成は宇都宮氏の大軍と戦い討死した。史料によれば、この宗成が、初めて「皆川」を氏としたとある。
戦国時代の後半になると、上杉氏、後北条氏、武田各氏や常陸の太守佐竹氏の抗争の波に揉まれ、、一族を死守することで、凌ぎを削る毎日であった。
天正28年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐で、皆川広照は後北条氏に味方をしたため、秀吉軍に攻撃され、秀宗築城より6代170年間続いた皆川城は陥落した。
しかし、広照は密かに小田原城を抜け出し、徳川家康を通じて降伏したので、皆川3万5千石は安堵された。
慶長8年(1603)松平忠輝が信濃川中島藩に封ぜられた時、かつての忠輝の傅役の功により、広照は信州飯山7万5千石を賜った。しかし、忠輝の不行跡(私は、これについてははなはだ疑問であるが)などからの責めを負い所領没収となった。
『歴史と旅・戦国大名家総覧(秋田書店刊)より』

現況・登城記・感想等

皆川公民館に到着すると、背後に皆川城跡である城山が見える。城山の東半分は、木々に覆われているが、西半分は木々が伐採されていて、山腹にパイプで「城山」と描かれた大きな文字が見える。
皆川城は比高差60~70mほどの平山城で、最頂部に本郭(東郭)を配し、その西側一段下の平坦地を西郭を配している。そして、山腹周囲を多くの腰郭が取り囲み、その形から法螺貝城と呼ばれた。
それぞれの腰郭は幅も広く、 かなり大きな建物が建てられていたのではと思われるが、西郭などから見下ろすと、その塁段の光景はまるで最近の宅地開発のようである。そして、その向こうには豊かな(のどかな?)田園風景が広がっている。
また、はっきりと分かる竪堀と横堀(空堀)が良好に残っている。特に竪堀がこんなに分かりやすいのは珍しい。
居館跡は、公民館の敷地になっており、相当な広さ(東西250m、南北100mほど)がある。そして西側にかなり高い土塁(6m前後)と、 西から南にかけて水堀が残っている。
(2007/06/03登城して)

ギャラリー

皆川城鳥瞰図(栃木県立博物館展示模型より)
皆川城は比高差60~70mほどの平山城で、最頂部に本郭(東郭)を配し、その西側一段下の平坦地を西郭を配している。そして、山腹周囲を多くの腰郭が取り囲み、その形から法螺貝城と呼ばれた。
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居館跡 ~クリックにて拡大画面に~
居館跡には公民館が建ち、西側空地は芝生の養成中のようであった。
その西側(写真奥)には6mほどはある土塁が残る。その土塁の外側には水堀跡が残っている。

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居館跡から全景を ~画面をクリックにて拡大画面に~ 
居館跡(公民館)の背後の城山が皆川城跡で、写真右側の山頂上が本郭(東郭)で、その左下の平坦部分が西郭である。城山の東半分(写真右側)は、木々に覆われているが、西半分(写真左側)は木々が伐採されているので遺構や形状が分かりやすい。写真左下の階段を登り、左(西)へ向かって登城する。 
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居館跡から城山西側を望む ~画面をクリックにて拡大画面に~
木々が伐採された城山西側の山腹にはパイプで「城山」と描かれた大きな文字が見える。 
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空堀(横堀)
空堀(横堀)は、はっきりと分かり易い良好な形で残っている。右の階段は竪堀で、その階段を登って、西郭経由で本郭へ向かう。
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竪堀を見下ろす
見事に良好に残っていて、かっこいい。 
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竪堀脇の階段を登り切った所(山腹)から見下ろす
竪堀の両側には段曲輪が設けられている。
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西郭
西郭は当城で最も広い郭で50m×150mほどある。
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西郭
写真正面奥の高台上が本郭で西郭と本郭との比高差は10mほどある。
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西郭から段曲輪を ~クリックにて拡大画面に~
城山の西半分は木々が伐採されているので、遺構や形状が分かりやすく、また眺望もよく、手前下の段郭の向こうには豊かな(のどかな?)田園風景が広がる。腰曲輪が山の周りを、何段にも取巻いているが、それらの腰曲輪は幅が広く、結構大きな建物が建てられていたのではと思われるが、まるで最近の宅地造成のような光景である。
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本丸(東郭)跡は狭く、城址碑が建立されている。
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本郭からの眺望
本郭のある城山東側は、山腹は木々に覆われているので段曲輪などの遺構は見えないが、田園風景とその背後の山々ののどかな光景がいい。
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竪堀を下から見上げる ~画面をクリックにて拡大画面に~
下城後、竪堀を下から見上げた光景もなかなかだ。
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居館南西部の水堀
居館の南西部の水堀は、一部が模擬石垣で囲まれて残されている。
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西側の水堀跡
一方、西側は堀底に溝が造られているが、ほとんど手を加えられていないようだ。
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コメント

米本 勝(2014/01/07)

栃木のこの近辺には良くゴルフに行きます。皆川城CCにも2回程行ってます。同行のメンバーはゴルフにしか興味はないので、残念ながら皆川城址は外からまがめるだけです。でも、あの特異な城跡には興味を持っていました。カクジローさんのホームページでまるで行ったかのようにかなり詳しく知ることが出来ます。城郭辞典として参考にさせて頂きます。

タクジロー(2014/01/07)

米本 勝 さま
当サイトへのご訪問とコメントありがとうございます。
本年も、宜しくお願い致します。

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