下野 吹上城(栃木市)

崖上の高台の城跡は今は吹上中学校に

戦国期に皆川城の支城として築城、江戸期には久留米藩有馬氏の分家の陣屋に

別名

吹上陣屋

所在地

栃木県栃木市吹上町434-1(吹上中学校:TEL0282-31-1958)

形状

陣屋

現状・遺構等

現状:吹上中学
遺構等:土塁、空堀

満足度

★☆☆☆☆

訪城日

2008/01/15

歴史等

吹上城(ふきあげじょう)の築城年代は不祥であるが、戦国時代、皆川城 (栃木市皆川城内町)の支城として、皆川氏一族の膝附(ひざつき)宗長が築いたと伝えられている。皆川地方は慶長14年(1609) まで皆川氏領であったが、同年に皆川氏は領地を没収されているので、このとき吹上城は廃城になったと考えられる。
江戸時代には、本丸跡に天領を支配する代官所が置かれたが、天保13年(1842)、有馬氏が上総五井(千葉県市原市)より当地へ移封され、 代官所を改修して藩庁とした。
久留米藩祖有馬豊氏の次男頼次は、3代将軍家光の弟忠長に仕えていたが、忠長が蟄居中に頼次が嗣子なく没したため、 豊氏の外孫吉政が継いで、紀伊徳川家に仕えた。 藩主吉宗が8代将軍に就任し、吉政の養子氏倫が幕府旗本に取り立てられ、1万石の大名となった。4代後の氏恕(うじのり)の時、 初めて上総五井に陣屋を構えて立藩した。その後、4代後の氏郁の時の天保11年(1840)に一部領地替えされたあと、天保13年 (1842)当地に陣屋を構え、吹上藩を立藩した。
明治4年(1871)に廃藩となったが、吹上藩は久留米藩の支藩的な関係にあった。
城跡は、吹上中学校の建設工事が行われる昭和22年(1947)以前まで、本丸跡(中学校敷地)がよく残っていたが、 今では中学校の東側と北東の山中に幅4~6mの空堀と、高さ約2mほどの土塁を残すのみとなっている。
『「とちぎの古城を歩く・塙静夫著(下野新聞社刊)」、「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」、「大名の日本地図・中嶋繁雄著(文春新書刊) 」より』

現況・登城記・感想等

城跡は吹上中学校の敷地となっており、崖上の高台がその名残りを偲ばせている。
やっと空が白みはじめたばかりの真冬の早朝6:45であった。
にも関わらず、校内への坂道には登校する生徒や先生が・・・。ちょっと校内には入って行く雰囲気ではない。
という訳で、校内に土塁と空堀が一部残っているとのことであったが、確認出来ず!どうも校内の遺構はなあ!苦手だ!!
(2008/01/15訪れて)


【余談】
私は、元来、朝が苦手である。城めぐりの時だけは別だが・・・。中学生の時は、自宅のすぐ裏が学校であったにも関わらず、 ほぼ毎日遅刻だった。
まさに早朝も早朝、6:45に登校する生徒や先生を見て、「今時の生徒や先生は、こんなに朝早くから大変だなあ」と思った。
これが、この城跡を訪れて、一番の感想だった(苦笑)。

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