上野 安中城(安中市)

本丸跡の高台を

武田信玄の西上野進出に備えて安中忠政が築城も落城、江戸期に井伊氏が再築

所在地

群馬県安中市安中3丁目

形状

平城

現状・遺構等

現状:市街地
遺構等:土塁・空堀らしき跡、城址札

満足度

★☆☆☆☆

訪城日

2001/08/19
2007/10/04

歴史等

安中城は武田信玄の西上野進出に備えて、安中忠政によって、永禄2年(1559)に築城された。当時、安中氏は箕輪城主長野氏に属し、 忠政は嫡子忠成を安中城に入れ、自身は松井田城を強化して信玄に備えた。
永禄4年(1561)に信玄は、この付近に八幡平陣城を築き、安中城と松井田城の間を分断し、 安中城は同7年(1564)松井田城とともに落城した。
その後、安中氏は武田氏に属し、武田勝頼に従い天正3年(1575)の「長篠の合戦」に出陣し、ことごとく討死した。
天正18年(1590)、徳川家康の関東入部にともなって、井伊直政が上野箕輪12万石に封じられた際、 安中周辺はその支配下に置かれた。
関が原合戦後の慶長6年(1601)、直政が安中領3万石と近江佐和山15万石をもって居城を佐和山に移した。 関が原合戦の戦傷がもとで、直政没後、嫡男・直勝が襲封し、彦根城を築城して佐和山から移るが、 生来の病弱のため大阪の陣には弟の直孝が出陣した。
元和元年(1615)、直孝が彦根井伊氏の家督を継ぎ、兄直勝に安中領3万石を分与して安中藩が立藩した。
直勝は、慶長19年(1596)廃城同然となっていた城を再築し、井伊氏2代が30年に亘り在封したが、井伊氏2代目直好は、正保2年 (1645)5千石を加増されて三河西尾へ転封となった。
その後、水野氏2代、堀田氏1代、板倉氏2代、 内藤氏3代、板倉氏6代と続き明治を迎えた。
『「日本城郭大事典(新人物往来社刊)」、「国別・藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」、「現地説明板」参照』 

現況・登城記・感想等

感想を言う言葉にさえ困るほど何もない。尤も、文化センターが高台にあり、その下が空堀・土塁らしき感じはあるが。また、 案内板が各所に立ってはいるらしい。
(2001/08/19、2007/10/04訪城後に)

ギャラリー

本丸跡
本丸跡は、文化センター(図書館・ 公民館)・体育館・駐車場になっており、面影は全くない。

本丸跡(中央体育館前) に建つ立て札
実に情けない立て札が・・・。㊧城址、㊨鉄砲場の立て札。右の文字はほとんど消えかかっている。
 

安政遠足碑(文化センター前に)
安政2年(1855)、 藩主板倉勝明は家臣の心身鍛錬のため50歳以下の藩士を碓氷峠の熊野権現まで29km走らせる「遠足(とうあし)」を実施した。 これは日本最古のマラソンと呼ばれ「安政遠足、侍マラソン」として復活し、今日では安中の名物になっている。
 

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント