南斜面に設けられた畝形阻塞
本庄氏の支族・鮎川氏の本拠の城、山の斜面に50数条もの畝形阻塞が
読み方
おおばさわじょう
所在地
新潟県村上市大場沢
【アクセス】
普済寺の背後(南側)の山が城跡です。県道349号から普済寺へ向かう細い道の左(東)側に大葉沢公民館があり広い駐車場があります。公民館の西の道端に城跡への案内板が立っているので、それに従って行きます。尚、普済寺から城跡東側を登って行くコースもあります。
普済寺:村上市大場沢1847、0254-72-1974
所要時間
公民館から宮山山頂部の雷神社まで約10分、今回の所要時間は1時間強でした。但し、寺山へは登っていません。
形状
山城(宮山は標高80m、比高50m、寺山は標高90m、比高60m)
現状・遺構等
【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、横堀、堀切、畝状竪堀群、遺構案内板、説明板
満足度
★★★★★
訪城日
2015/10/24
歴史等
鮎川氏は本庄氏の支族で、戦国時代には清長・盛長が出て宗家の本庄房長・繁長らと越後北辺の実力者として台頭していた。
永正9年(1512)に鮎川式部大輔は長尾為長に背いて大葉沢城に籠城した。
また天文8年(1539)には鮎川清長は同族小川長資と共に本庄城を襲い、本庄房長を出羽に追い、下剋上を行なっている。
色部氏の調停によって本庄氏と和平したが、永禄11年(1568)、武田氏の調略により本庄繁長が上杉輝虎(謙信)に背き、追討を受けると、鮎川清長は上杉氏について本庄攻めに加わり、繁長も大葉沢城を逆襲するなど激しく対戦した。
その後、鮎川氏は上杉謙信・景勝の被官として重きをなし、慶長3年(1598)の上杉景勝の会津移封に従ってこの地を去り、大葉沢城も廃城となった。
『「日本城郭大系7」、「日本城郭総覧(秋田書店刊)他参照』
現況・登城記・感想等
普済寺の背後の東西に延びる細長い丘陵が大葉沢城跡です。城は西の「宮山」(標高80m、比高50m)と東の「寺山」(標高90m、比高60m)に分かれ、その間に2条の大堀切を設けて、一城別郭的な構成になっています。宮山に築かれた区域を本城とし、寺山を詰の丸としていたのではないでしょうか。
大葉沢城の特徴は何と言っても、宮山の南斜面にこれでもかというほど設けられた「畝状竪堀(畝形阻塞)」でしょう。今までにも、松尾城(高知県佐川町)や岩屋城(岡山県津山市)など、何箇所か畝状竪堀が設けられた城跡は見たことがありますが、これほどの畝状竪堀は初めてで興奮するほどでした。なんと50数条もあるのだそうですw(*゚o゚*)w。
ただ、竪堀というのは、現物を間近に見ると分かるのですが、写真にすると迫力が伝わらないのが残念です。それでも、ここの畝状竪堀はかなり分かるほうかもしれないですね。
大葉沢城は、畝状竪堀だけではありません。各曲輪を断ち切る堀切も凄くて、堀底へ降りて行くのが大変なほどでした。また、城の西端部を断ち切る堀切は中央部に畝が設けられて、二重堀切のようになった珍しい堀切です。
(2015/10/24登城して)
ギャラリー
大葉沢城の位置(大葉沢城主郭跡案内板より)
大葉沢城は西方に広がる三面川下流の氾濫原に向かって、東側から西側に突き出た細長い丘陵にあります。本庄氏による攻撃を警戒していたのでしょうか、本庄氏本拠の城「本庄城」がある村上市側に当たる南斜面には防御施設の畝形阻塞(畝状竪堀)が設けられています。
大葉沢城(大場沢公民館駐車場前の説明板より)
普済寺の背後の東西に延びる細長い丘陵が大葉沢城跡です。西の「宮山」(標高80m、比高50m)と東の「寺山」(標高90m、比高60m)に分かれ、その間に2条の大堀切を設けて、一城別郭的な構成になっていますが、宮山に築かれた区域を本城とし、寺山を詰の丸としていたのではないでしょうか。
宮山全景
大葉沢城の本城の宮山です。
寺山全景
宮山の東(写真左)の山が詰の丸の寺山です。宮山の大葉沢城とは別に「寺山城」とする資料もあるようです。
【登城記】
大場沢公民館(駐車場)脇から登城
大場沢公民館の西の道端に城跡への案内板が立っています。背後に見える山が宮山(大葉沢城跡)ですが、写真右へ歩いて行きます。尚、写真左の道を進み、左奥に見える墓を左へ向かうと普済寺があり、そこから登ることもできます。
登城口
上写真の右の道を進むと、鳥居の立つ登城口へ出ます。
登城道
登城道は整備されています。宮山の北斜面には、往時は腰曲輪が塁段に設けられていたようですが、かなり崩落していて遺構群が分かり辛いのですが、一部平坦地があり、腰曲輪跡の一部のようです。
雷神社
山麓の登城口(鳥居の立つところ)から8分ほど登って来ると山頂部の平坦地(曲輪)に鎮座する雷神社へ出ます。この曲輪は全城域を見渡せる司令塔にあたるところだったようです。
雷神社は寛治7年(1093)の創立で、賀茂次郎源義綱が出羽地方の賊を征伐する時に山城国愛宕郡の賀茂神社から分霊を勧請し当村の鎮守にしたと伝えられるそうです。
痩せ尾根
雷神社から東へ向かうと痩せ尾根があり、その向こうの少し高いところにも平坦地(曲輪)があります。
主郭?
雷神社が鎮座する曲輪より少し高くて広いことを考えると、こちらが主郭かもしれません。ここには、案内板が立てられています。
大堀切が現れる
さらに東へ向かって行くと、大堀切が現れます。下りて行くのが大変なほどの深さと傾斜です。
大堀切
大堀切の堀底と主郭の比高差は10mほどありそうです。
大堀切と畝形阻塞
大堀切は南側へ廻って横堀となって延び、そこには畝形阻塞がありますが、そちらの見学は後回しにして、さらに東へ向かいます。
曲輪(3郭?)
大堀切を渡ったところが3郭でしょうか?ここをさらに東へ向かいます。
またまた大堀切が現れる
3郭を東へ向かうと、またまた大堀切が現れます。
大堀切
この大堀切も、堀底と3郭との比高差は8mほどはある大規模なものです。
普済寺への道
2つ目の大堀切を渡って、さらに東へ向かうと普済寺へ降りる道へ出ます。ここも、堀切跡のようです。ここをさらに東へ向かうと詰の丸である寺山ですが、時間がないので、引き返して畝形阻塞を見に行くことにしました。
普済寺を見下ろす
真下には、鮎川氏の菩提寺であった普済寺が見えます。
横堀と畝形阻塞(畝状竪堀)
2つ目の大堀切へ戻り、大堀切から宮山の南側山腹へ延びる横堀を歩きます。横堀の北側の切岸(写真右側)は傾斜角60度以上あり、堀底から曲輪上まで高さも15mほどあります。
また、横堀の堀底と畝形阻塞の畝との比高差も3mほどあります。
畝形阻塞(畝状竪堀)
大葉沢城の特徴は何と言っても、宮山の南斜面にこれでもかというほど設けられた「畝状竪堀(畝形阻塞)」でしょう。今までにも、松尾城(高知県佐川町)や岩屋城(岡山県津山市)など、何箇所か畝状竪堀が設けられた城跡は見たことがありますが、これほどの畝状竪堀は初めてで興奮するほどでした。なんと50数条もあるのだそうですw(*゚o゚*)w。
畝形阻塞(畝状竪堀)は中心間隔約6mで、畝の長さは15mほどあります。ただ、竪堀というのは、現物を間近に見ると分かるのですが、写真にすると迫力が伝わらないのが残念です。それでも、ここの畝状竪堀はかなり分かるほうですね。
ゴボウ峰
大葉沢城の畝形阻塞は、通称「ゴボウ峰」というそうです。
二重堀切
城の西端を断ち切る堀切は中央部に畝が設けられて、二重堀切のようになった珍しい堀切です。
竪堀
勿論、二重堀切は竪堀となって山裾へ落ちて行ってます。
二重堀切と西端の曲輪
二重堀切の西側も曲輪跡ですが、藪がひどくて突入はやめました。
堀切
二重堀切から、雷神社の方へ戻ると、もう一つ堀切が設けられています。この堀切は、深さ2mほどです。