越後 本庄城(村上市)

帯曲輪

近世村上城の前身の城

別名

中世村上城

所在地

新潟県村上市本町字臥牛山
【アクセス】
「近世村上城」が村上市内では有名な城なので、「村上市本町」を目指して行けばすぐ分かると思います。国道7号線「新町交差点」を西へ入り800mほど進んだ突き当りを左(南)へ曲がり、100mほど進んだ交差路を左(南東)へ曲がり300mほど進むと登城口の一文字門跡へ出ます。付近に駐車スペースがあります。

形状

平山城(標高135m、比125m)

現状・遺構等

【現状】 国指定史跡
【遺構等】 曲輪、土塁、竪堀、井戸、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2015/10/24

歴史等

本庄城は臥牛山の地形を巧みに利用した天然の要害で、本丸の位置は慶長年間(1596~1615)の「瀬波郡絵図」から、近世村上城のものとほぼ一致していることがわかる。
鎌倉時代初頭に小泉荘の地頭になった平姓秩父季長が、建永年間(1206~07)頃に嫡子の行長(本庄氏の祖)に本庄、庶子の為長(色部氏の祖)に加納(現在の村上市の一部:旧岩船潟・有明付近)の地頭職を譲ったのがはじまりである。
行長は、この地に城を築き、下越で勢力を拡大し、揚北衆の一人として、しばしば守護上杉氏や長尾景虎(上杉謙信)に抵抗した。
中でも、永禄11年(1568)5月からの本庄繁長の反乱は最大で上杉謙信を悩ませた。繁長は川中島合戦で謙信から血染めの感状を頂戴し、関東出陣でも戦功を立てたにも関わらず、何の恩賞もなく不満をもっていた時に、武田信玄に調略され、謙信の越中出陣中に叛旗を翻した。
繁長謀叛の報を受けた謙信は、急いで春日山城に帰って軍備を整えると、村上へ向かい、11月には本庄城を包囲し攻撃を開始したが、堅城の上、雪とゲリラ作戦に悩まされ長期戦になった。しかし、信玄の後詰めがないことを知った繁長は翌年3月、伊達・芦名両氏の仲介で、嫡子顕長を謙信に人質として差し出し降伏した。
以後、謙信に忠誠を尽くし、よく働いた。御館の乱、新発田重家征伐にも景勝の家来として数々の戦功を立てた。慶長3年(1598)景勝の会津移封に際し繁長も同行した。
代わって、慶長2(1598)年に、加賀小松城から村上義明が9万石で入城し、義明は本庄氏の城を大改造し近世村上城を造り上げた。
『「日本城郭総覧(秋田書店)」、「現地説明板」他参照』

現況・登城記・感想等

近世村上城の前身本庄城は、臥牛山と呼ばれる城山の牛の背に築かれており、近世村上城と山頂部は共通しますが、主に東側斜面に曲輪群を展開していたようです。
近世村上城の一文字門跡から七曲り坂を登り切った四ツ門跡からと本丸東下の埋門跡から「中世遺構散策コース」が設けられています。
しかし、竪堀や畝状竪堀等の遺構が残る周辺は、強烈な藪のため、とても突入する勇気はありませんでした(;>_<;)。
草木の枯れた冬季にでも行くしかないかもしれません。
(2015/10/24訪れて)

ギャラリー

近世村上城と中世村上城の縄張図(現地案内板より)  ~画面をクリックにて拡大~
近世村上城の前身本庄城は、臥牛山と呼ばれる城山の牛の背に築かれており、近世村上城と山頂部は共通しますが、主に東側斜面に曲輪群を展開していたようです。
村上城縄張略図

中世村上城(本庄城) ~現地説明板より~
本庄城(中世村上城)をめぐる攻防は、永世4年(1507)以降、60年間に3度行われた。中でも、永禄11年(1568)は激戦で、城主本庄繁長は上杉謙信の軍勢に攻められながら、籠城戦を展開し、遂に落城することはなかった。現存する複雑、堅固にして壮大な遺構が造られたのは、その前後と思われる。とりわけ、城の東南には虎口・竪堀・帯曲輪などが集中している。(現地説明板より)
IMG_9121

中世遺構散策コース入口(四ツ門跡)
中世村上城(本庄城)の見学(中世遺構散策コース)は、一文字門跡から七曲り坂を登り切った四ツ門跡からと本丸東下の埋門跡から向かうことができますが、私は近世村上城を見て廻ってあと、埋め門から下りて行きました。
中世散策コース

中世遺構散策コース入口(埋門跡)
本丸東下にある埋門跡から降りて、中世遺構散策コースへ・・・。尚、埋門跡は石垣で築かれていますが、勿論、これは近世村上城時代の遺構です。
埋門跡

中世散策コース
埋門から中世遺構散策コースへと向かいますが、いきなり急な階段を下りて行きます。道の周囲は強烈な藪です。
IMG_9139

帯曲輪
中世遺構散策コースは、階段を降り切ったところから左へ曲りますが、この道は帯曲輪跡のようです。勿論、道の周囲は強烈な藪で、竪堀や畝状竪堀など最も多くの遺構が残る方面は薮でとても突入する勇気はありませんでした(/。ヽ)。
IMG_9141

坂中門跡
コースに従って進むと「坂中門跡」へ出ます。恐らく、中世村上城時代にも近世村上城時代にも利用されていたものでしょう。
IMG_9143

千荷井戸
さらにコースを進むと、右手の薮の中に僅かに道らしきものがあり、そこに標柱が立っています。よく見ると「千荷井戸」となっています。ただ、あまりの藪で入って行く勇気ナシ(/。ヽ)。
IMG_9145

千荷井戸をズームアップ
よく見ると、標柱の手前に井戸跡らしきものが・・・。この井戸も、中世村上城時代にも近世村上城時代にも使われていたことでしょう。
murakami-idodai

四ツ門跡へ
さらにコースを進んで行くと、四ツ門跡へ出ました。結局、主だった遺構を見ることなく終わりました(/。ヽ)。中世村上城跡(本庄城跡)を見て廻るには、真冬に来るしかないようですね。尤も、真冬は雪で覆われているでしょうが・・・( ̄ー ̄;。
IMG_9148

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント