本丸跡に建つ石碑と説明板
戦国屈指の名将、上杉謙信の居城
別名
蜂ケ峰城
所在地
新潟県上越市中屋敷字春日山
形状
山城(標高約180m、比高約150m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、空堀、大井戸、現存門(山麓の林泉寺に移築)、石碑、説明板
【国指定史跡】
指定日:昭和10年8月27日、(追加指定)昭和49年3月18日、昭和55年3月14日
指定理由:慶長12年に廃止されたが、室町時代初期から長尾氏に関係する山城として始まり、長尾氏から近世初頭に堀氏により改修され、拡大された、これらの状況を示す郭群、土塁、堀切などの遺構が良好に保存され、中世を通じての山城の性格の進展を知るうえで重要
面積:44万7,242㎡
資料館:新潟県立新潟図書館
満足度
★★★★☆
訪城日
2006/04/30
歴史等
春日山城が築かれたのは南北朝時代のことと伝えられている。築城当初の詳細については不明であるが、戦国大名の居城として相応しいものとしたのは、上杉謙信の父・長尾為景である。長尾氏は越後守護上杉氏の家臣であったが、為景の代に主家を凌ぐ勢力となり、永正4年(1507)、守護の上杉房能を殺害し、房能の従兄弟の定実を守護に立て傀儡政権樹立し、越後統治の実権を奪い取り戦国大名へと成長、その過程で春日山城は拡大・整備された。為景のあと、上杉謙信・景勝と三代にわたり普請に努め大城郭になった。
春日山城の特徴は、山頂の本丸から山麓まで連続する屋敷群と、裾野に巡らした総延長1,200mの総構え(監物掘)である。
謙信は関東・信濃・北陸と各方面へ出撃したが、天正6年(1578)3月13日急死した。謙信死後、景虎・景勝の二人の養子の家督を巡る争いの末、景勝が相続することとなった。しかし、景勝は慶長3年(1598)、秀吉より会津への転封を命ぜられた。
景勝が会津へ移されたのち、掘久太郎秀治が入ったが、山城で不便なため直江津の地に福島城を築き始め、その子忠俊の代に本拠を福島城へ移し、春日山城は廃城となった。
『現地説明板、日本の名城・古城もの知り辞典(主婦と生活社刊)参照』
日本五大山城
春日山城は典型的な山城であり、江戸時代以降も存続していた山城の代表格「日本三大山城(大和高取城、美濃岩村城、備中松山城)」に対し、戦国期にその役割を終えた山城を選りすぐった「日本五大山城」のひとつに数えられている。
【日本五大山城】
・月山富田城
・七尾城
・春日山城
・小谷城
・観音寺城
*小谷城に代わり八王子城を入れる場合もある。
現況・登城記・感想等
やっとと云うか、ついに来ました春日山城。新潟県の城址の登城は今回が初めてであるが、最初の登城は、 やはり上杉謙信の春日山城と決めていました。
春日山城は想像を遥かに超える大規模な山城でした。
山城部分だけでなく裾野にも監物堀と呼ばれる総構えが築かれ、その城域は約2km四方と、大変な規模である。尤も、 監物堀は堀氏が入封してからのものではあるが・・・。
春日山城は、全体的に道がよく整備され、廃城後400年もの歳月が経っているにも関わらず、曲輪・土塁・空堀・井戸等々の遺構が良好に残っている。ましてや上杉謙信の城である。勿論、楽しい登城でした。
(2006/04/30登城して)
ギャラリ-
春日山城絵図(現地入手パンフより) ~画面をクリックにて拡大~
春日山城散策コース案内(現地入手パンフより) ~画面をクリックにて拡大~
春日山城大手道
春日山城跡へ向かって車を薦めると城址碑が立っており、そこにパンフレットが用意されています。そこから左へ向かう道が大手道だそうですが、最終的に車が通れないようなので、そのまま真っ直ぐ城跡へ向かって行きました。
御前清水
城址碑のところから城跡へ向かうとすぐに「御前清水」が・・・。水場の周辺は石組などできれいに整備されており、井戸枠で囲まれています。「越後の龍」と呼ばれた謙信をイメージさせるためか、龍の口から水が流れ出ています。一定の水量を保つ軟水で、戦国時代以来から地元民に愛されてきたそうです。石碑に「謙信公出陣 御前清水」と刻まれています。謙信も飲んだかもネ?。
上杉謙信銅像
石垣上に謙信像が立てられ、その下が駐車場です。三の丸方面から登って行きます。
甘粕近江守屋敷跡
上杉謙信像の脇から三の丸方面へ登り、しばらくすると甘粕近江守屋敷跡へ出ます。甘粕近江守は、第4次川中島合戦の際に、武田軍の啄木鳥戦法を阻んだことで有名です。尤も、啄木鳥戦法そのものが、実際に行われたかどうかは怪しいですがね。
【三の丸跡】
三の丸は、春日山城では最も良好な状態で土塁が残り、「米蔵跡」や上杉謙信が自ら名を与えて住まわせた北条氏からの養子「三郎景虎屋敷跡」などを総じて「三の丸屋敷跡」と呼びます。
三の丸跡
三郎景虎屋敷跡
米蔵跡と土塁
三の丸横の竪堀
かなり大規模な竪堀ですが、竪堀が、写真でもこんなにはっきり分かるのは珍しいですね。この竪堀は、山裾の対馬谷から二の丸の直下にまで延びてくるもので、三の丸や二の丸の防衛のため掘られたものと考えられます。
【二の丸跡】
三の丸跡から直江津の街並みが眼下に望めますが、さらに登って二の丸へ溶着すると、さらに眺望がよくなります。
二の丸跡
右奥の山頂部に見えるのは天守台です。
二の丸から直江津の街並みを
御成街道
二の丸の先には本丸へ登る道と上杉景勝屋敷方面に降りていく御成街道との分岐点に出ます。 時間のこともあり、今回は本丸の方へ・・・。上杉景勝屋敷へは、この街道を下りて行きます。
天守台
二の丸から少し登って行くと、天守台・本丸へと出ます。案内板には天守台とありますが、当時天守閣が建っていたわけがないけどなあ? 堀氏が入ってからのものなのかなあ?。本丸跡よりも僅かながら低いようにも思われるし・・・。まあ、多分何らかの櫓が建っていたのは確かでしょう。
天守台からの眺望
天守台や本丸からの眺望は、やや霞がかかっているものの絶景です。 眼下には直江津の街並み、その向こうには日本海が望め、反対側には多分妙高山だと思うが雪化粧をした山がそびえ、その雄大なパノラマに魅せられます。
本丸
上杉時代、この辺り一帯の高い所は、毘沙門堂・お花畑・井戸郭を含めて実城と呼ばれました。この本丸は、実城のうち「お天上」と呼ばれたところです。すぐ横(南隣)の櫓台(天守台)とともに高さ約180mあり、四方の山々の支城を一目で見渡すことができます。
本丸から天守台を
本丸と天守台間は堀切(堀底道)となっています。
本丸からの眺望
天守台と本丸からの眺望は日本海方面、妙高方面共に絶景です。靄がかかっているのが何とも惜しいです。
井戸曲輪
本丸の裏は井戸曲輪で、随分大きな井戸があり、廃城後400年経った今でも満々と水を湛えています。このような山頂部に水が湧くのは、西方の山々と礫層でつながっていて、サイフォンの原理が働いているのだそうです。
本丸裏の油流し
本丸裏側の斜面は絶壁になっています。 あまりの急斜面で滑ってしまうことから、油を流した時のように滑りやすい斜面ということから「油流し」と名付けられたようです。
毘沙門堂
本丸から、護摩堂・毘沙門堂・お花畑・直江屋敷・虎口・千貫門へと降りていく。毘沙門堂は、謙信が出陣前に戦勝を祈願したところです。
お花畑
各堂に献ずる花や薬草を植えたところ。
直江屋敷
御存知、上杉家の重臣・直江信綱・兼続の屋敷跡です。三段になっています。
喰い違い虎口
虎口下の空堀(千貫門の奥の方にあたる)
この空堀はかなり深く分かり易い。
千貫門跡
春日山城の古絵図に必ず描かれている門が千貫門で、今でも門が建っていたと考えられる部分のみ土塁が分断されていて、春日山神社側からクランク状の道がここに通じています。三方が土塁に囲まれ、左に二本の一見道と思われる切通しがあります。実は、これは空堀の底で、侵入者を空堀から急な崖下に落とそうとしたものでしょう。
【春日山神社】
千貫門から春日山神社へ降りて行く道の脇には、何段もの曲輪跡らしき削平地が確認できます。春日山神社は上杉謙信を祭神としています。
【林泉寺惣門】 ~春日山城搦手門を移築~
林泉寺は山麓にあり、その惣門は実に堂々としている上、素朴で品格のある素晴らしい門です。林泉寺は謙信の父・長尾能景が父の菩提を弔うために創建した長尾氏の菩提寺で、惣門は春日山城の搦手門を移築したものと伝わります。
【春日山城史跡ひろば(監物堀と東城砦)】
山城より下って600mくらいの所にある監物堀と東城砦。ここが城の一番外側になります。城の最も北になり、楼門があったとされています。
監物堀と土塁
監物堀と東城砦
堀の奥に見えるのは東城砦です。
楼門内の区画の溝
東城砦へ
東城砦虎口
東城砦
建物は柱穴に基づいて造られた復元です。
東城砦奥(北)の下池
天然の堀ですね。
東城砦から史跡広場を見下ろす