越後 与板陣屋(長岡市)

長岡藩牧野氏が分家・立藩し陣屋を構え、その後、井伊氏が入封し築城

別名

与板城

所在地

新潟県長岡市与板町与板甲339-1ふれあい交流センター
ふれあい交流センター:電話0258-72-4080

形状

陣屋のちに平城

現状・遺構等

現状:与板町ふれあい交流センター
遺構等:移築大手門(本願寺新潟別院の表門)、移築切手門(恩行寺の山門)、模擬冠木門、石碑、説明板
     本願寺新潟別院:与板町与板乙4356、電話0258-72-2120
     恩行寺:与板町与板721、電話0258-72-2538

満足度

★☆☆☆☆

訪城日

2008/12/07

歴史等

寛永11年(1634)、長岡藩主牧野忠成の次男康成が与板に1万石を分与され陣屋を構えた。
2代あとの康重は、元禄15年(1702)に信濃小諸へ転封となり、 一時、天領となったが、宝永2年(1705)、譜代筆頭彦根井伊家の分家の井伊直矩が遠江掛川から2万石で入封し、 以後幕末まで在封した。
6代藩主井伊直朗は、田沼意次の下で若年寄に昇進し、文化元年(1804)に城主格となり、次の直暉が文政5年(1822) に小規模な城を築いた。
慶応4年(1868)の戊辰戦争では、新政府側についたので、旧幕府軍の攻撃を受けて城は炎上した。
『「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」、「現地説明板」参照』

現況・登城記・感想等

与板町には与板城が3つある。
1つは、直江兼続の居城「与板城」、もう一つは、その与板城に移る前の「本与板城」、そしてこの「与板陣屋(与板城)」である。
今日の登城の本命は、前二つの与板城(与板城&本与板城)であったが、残念ながら前夜からの大雪で、城址を目の前にしながら断念し、 井伊家の与板城の史跡を廻るだけになってしまった。
井伊家の与板陣屋は、6代藩主直朗の時に城主格昇任となり、築城を計画し、7代直暉の時に約3ヶ年を費やして城が完成、 幕末の戊辰戦争で焼失したという。
城跡には、城をイメージしたような「与板町ふれあい交流センター」が建ち、正面には模擬冠木門が構えられ、 それを取り囲むように塀がめぐらされている。
また、大手門が本願寺新潟別院の表門として、切手門が恩行寺の山門として移築現存している。
(2008/12/07訪れて)

ギャラリー

ふれあい交流センター
与板城跡には、城をイメージしたような「与板町ふれあい交流センター」が建ち、庭の中央に「與板城趾」 の立派な碑が立っている。

模擬冠木門
ふれあい交流センターの正面には模擬冠木門が構えられ、それを取り囲むように塀がめぐらされてる。

移築大手門
与板城は、戊辰戦争で焼失したが、大手門と切手門は戦火を免れた。大手門は、明治4年(1871) に本願寺派与板別院(のちに三条別院と合併し、現在は新潟別院)に移築され、別院の第一の門となった。

切手門(㊧表側から、㊨境内の内側から)
明治4年(1871)に恩行寺に移築され、当寺の表門となった。高麗門形式の門である。
 

直江兼続像
前夜からの大雪で、本命の与板城・本与板城ほかの登城を断念したので、時間に余裕が出来たので、 本願寺派新潟別院の横にある歴史民族資料館に寄ったら、何と展示改修のため臨時閉館とのこと。今日は本当についてない。 この直江兼続像は資料館前に立っていた。

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