信濃 大島城(松川町)

二の丸北西の二重空堀

武田氏の伊那地区拠点の城、織田軍が接近するや守将信廉(信玄の弟)は逃亡

別名

台城(台ヶ城)、大蛇ヶ城

所在地

長野県下伊那郡松川町元大島古町南部(台城公園)
【アクセス】
JR飯田線「山吹駅」から東へ約1km。国道153号「山吹」信号を東へと県道226号へ入り、600m程東進すると県道は右カーブしますがここを直進方向へ進みます。400m先で左折し、台城公園の南から西へ回りこむと無料駐車場が完備されています。ナビで、住所を指定すると「台城公園」が出て来ると思います。

所要時間

駐車場のすぐ前が城跡(台城公園)。今回の見学時間は1時間弱でした。

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】 台城公園
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀(横堀、堀切、三日月堀)、馬出、土橋、井戸、木碑、遺構案内板、説明板

満足度

★★★★★

訪城日

2013/10/26

歴史等

大島城は、平安時代末期、船山城(松川町)の城主片桐(片切とも)為行の第8子八郎宗綱が大島郷へ分地して大島氏を称し、この地に築城したのが始まりである。
その後、戦国時代末期まで約400年間、大島氏が城主として大島郷を領知したが、武田信玄の伊那侵攻により同氏に属した。
元亀2年(1570)、信玄は飯田城高遠城と共に、この城を東海へ進出する軍事拠点として大修築し、この時、台ヶ城と改称した。
天正10年(1582)、織田氏の伊那侵攻がはじまった。信長は、伊那路の進撃にあたって、難攻不落と信じられていた大島城を非常に警戒していたが、先陣として信長の長男・信忠が城に近づくと、城内から火の手があがり、たちまち燃え広がった。
それでも近辺の諸将は、武田氏との節義を重んじて交戦したにも関わらず、大島城の守将・信廉(消遥軒信綱)は、亡き信玄の弟という身でありながら、敵兵が来ると聞いて風のように姿を消していたのである。大島城は、攻められる前に落城したのである。
尚、信廉は、上原城の勝頼とも顔を合わさず、甲斐へ逃げたが、鮎川河原で織田軍に捕まって討たれた。
『「信州の城と古戦場・南原公平著(しなの木書房刊)」、「日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「現地本丸跡説明板」参照』

現況・登城記・感想等

大島城は、河岸段丘上の先端部を利用して築かれた城で、三方は険しい絶壁で眼下に天竜川が流れる要害の地にある上、さすが、武田信玄が東海へ進出する軍事拠点とするために、21ヶ村から人夫を徴発して大修築しただけあって、規模が大きいだけでなく、武田流築城術による技巧的な構造をもつ、まさに難攻不落の城です。
現在、大島城跡は、台城公園として多少改変されているが、概ね、良好に遺構が保存され見どころたっぷりです。
中でも、武田氏特有の丸馬出し前面の三日月堀や各曲輪周囲を複雑にめぐる大空堀は、途轍もなく大規模な上、二重堀構造になっている箇所も多く、見応え満点です。
実は、登城前には伊那地方にこれほど立派な城跡があるとは、想像だにしていなかったので、随分得した気分になりました(*^_^*)。
(2013/10/26登城して)

ギャラリー

大島城縄張(本丸跡説明板より)
大島城は、河岸段丘上の先端部を利用して築かれた城で、三方は険しい絶壁で眼下に天竜川が流れる要害の地にある。本丸・二の丸・三の丸の3つからなり、それら曲輪を大規模な空堀が区画している。また、前面(西)には、武田流築城特有の丸馬出しが構えている。
大島城縄張り

三日月堀①
車で公園駐車場へ向かうと、いきなり右手に丸馬出しの巨大な三日月堀が現れます。堀の内部には畝が1筋あり、二重堀になっている。
01三日月堀

三日月堀②
公園の駐車場へは三日月堀の外側を廻って入って行くことになるが、駐車場脇から見下ろす三日月堀も見応え充分です。
03三日月堀2

馬出し方面を
公園の駐車場の奥が馬出しになる。現在、民家が建つ馬出しへの道の両側も巨大な空堀(右側の空堀は上写真の三日月堀)がある。
05馬出しへ

公園への入口
本来の大手道である民家の建つ馬出し(上写真)への道からも登城することはできるが、駐車場東側に建つ台城公園の案内板と大島城の説明板の脇から入城。入城するといきなり、すぐ手前から奥の方にかけて両側に空堀や土塁が見えます。この時点で既に当城跡への期待が高まります。現登城道は、写真のように真っ直ぐに延びているが、これは公園化した際に造られたものでしょう。
11登城口

入城後、最初に出逢う空堀
公園入口から入城するとすぐに左手にこの空堀(上写真左手前)が見え、その規模の大きさに驚きました。しかし、この城の空堀は、まだまだこんなものではありませんでした。右側の土塁もなかなかのものです。
13空堀

馬出し(伏兵曲輪)と空堀
上写真の空堀を左手に見て、3~4mほど進むと、右手に空堀、左手に土塁があり、土塁には「馬出し」の案内板がたてられている。「戦国の堅城(学習研究社刊)」によると、「伏兵曲輪」となっているが、まあ馬出しのようなもので、大手前面の巨大丸馬出
のサブ的なものといえるでしょう。当城には、この他にも、三の丸が取り囲むような位置にある三角形の馬出しが設けられています。まさに鉄壁の守りです。
15登城道

三の丸北西部の空堀
三の丸は周囲には空堀がめぐらされているが、この空堀がまた実に巨大で見応え満点です。
17空堀

二の丸北西の二重空堀
この空堀は、北西部にある馬出し(2つ上の写真左側の土塁)と二の丸の間の空堀ですが、ここも城の前面の巨大馬出しの三日月堀と同様二重空堀になっていて、これまた見応え満点で、ついつい何枚も写真を撮ってしまいました。
19二重堀

三の丸とその西側の土塁
三の丸は、東側の空堀の中の小島のような(多分)馬出しを囲むようなL字型の広い曲輪で、外側(西側)には土塁が築かれている。
21三の丸

三の丸東側の空堀
この3つ目の馬出し(三角形の馬出し)を取り囲む空堀も、大規模で迫力満点です。まだまだ草木が元気な季節なので、写真に撮ると分かり辛いのが残念です。
23空堀

三の丸から三角形の馬出しへの土橋
空堀の北端部には三角形の馬出しへの土橋が架かっています。馬出しには東屋が建てられていますが、藪が結構ひどかったです。
25土橋

三角形の馬出しから二の丸北西の二重空堀を
馬出しからは、この二の丸北西の空堀が二重空堀になっているのがよく見えます。尤も、写真では分かり辛いかも?? 城前面の巨大馬出しの三日月堀とともに、この二重空堀の光景が一番気に入ったものですから、またまた出してしまいました(;´▽`A``。
27二重堀

三の丸南側の空堀
これまた、広くて深い空堀です。左上は三の丸南部分で、右上は東屋が建つ馬出しです。
29空堀

三の丸南東部の空堀
上写真の空堀の後ろ側に当たります、この辺りの空堀は、複雑に入り組んでいます。
31空堀

二の丸
二の丸への虎口付近から撮ったものです。正面奥の方に本丸が見えます。
33二の丸

二の丸土塁
二の丸も、虎口から北の方へ向けて外側(西側)には土塁が築かれています。土塁の北の方(写真右奥)には櫓台もあります。
35二の丸土塁

二の丸櫓台
37二の丸櫓台

二の丸から本丸を望む
本丸は、二の丸よりやや高い。
39二の丸から本丸を

二の丸と本丸の間の堀切
二の丸と本丸の間の堀切も巨大なものですが、両斜面にはツツジが植えられているためか、迫力がもう一つ?
41本丸堀切

本丸
本丸は、長軸が100m近くあり、ソフトボールくらいならできそうな広さです。当城は、主だった曲輪は3つだけですが、いずれも本丸並み或いはそれ以上の広さがあります。
45本丸

本丸西端の塚?
本丸の西端(二の丸側)には櫓台のような塚?があります。それが何かは分かりませんが、マレットゴルフの17番ホールのグリーン?になっていました(苦笑)。
47本丸の塚

本丸から堀切越しに二の丸を見下ろす
この写真を見て戴ければ、本丸と二の丸の間を断ち切る堀切が、如何に巨大なものであるかが分かって貰えるのではないでしょうか?兎に角、当城の空堀は、ここまで紹介してきた空堀のほとんど全てが、この堀切と同様、近世城郭並みの規模を持っています。
49本丸から二の丸を

本丸土塁
本丸も、二の丸や三の丸と同様、西側半分には土塁が築かれている。
51本丸土塁

本丸から天竜川を見下ろす
本丸は、西側(二の丸側)を除いて、周囲は険しい絶壁となり、特に東側下には天然の水堀「天竜川」が流れている。従って、東側半分には土塁が設けられていないのでしょう。
53天竜川

井戸
本丸の北下には木の柵で囲まれた井戸跡がある。内部を除くと、しっかりと石組みになっていたが、埋まってしまっていた。また、井戸を外部から隠すためか、周囲が土塁で囲まれている。
井戸

二の丸北東の空堀
井戸の西側から、二の丸の北東には空堀があるが、二の丸北西の二重空堀へと延びていっているようです。高低差があるため、まるで竪堀のように斜めに登っていっている。尚、空堀の外側には土塁が築かれていて防御万全といったところでしょうか。
55空堀

大手口の土塁
帰りは、大手口の方を通って戻りました。大手口の枡形は、ほとんど取り壊されてしまっているようですが、虎口両側の土塁、特に南西側のどっしりした土塁は健在で、その内側はマレットゴルフの2番ホールのグリーン?になっていました。
大手口脇土塁

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