北曲輪の北側の堀切に設けられた土橋
信長の伊那侵攻に備えて、or 家康の下で豊臣政権に対抗して築いた城?
所在地
長野県飯田市座光寺
【アクセス】
座光寺小学校校門の前の道を北西え300mほど進むと少し広い道路(フルーツライン)に突き当たるが、その20~30mほど左手前に立つ説明板の脇から登城でき、私はここから登城したが、ここには駐車できる場所はないので、耕雲寺の参拝用駐車場か座光寺小学校と保育園の間の駐車スペースを利用して下さい。
また、元善光寺の西約200mにある麻績神社から登ることもでき、駐車場もあるので、こちらから登城することをお薦めします。
座光寺小学校:飯田市座光寺1717−3、電話0265-22-1404
麻績神社:飯田市座光寺2516、電話0265-53-3525
所要時間
今回の見学時間は、約40分でした。但し、麻績神社から駐車場所まで戻ってくるのに、さらに20分掛かりました。
形状
山城
現状・遺構等
【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、虎口、空堀(横堀、堀切、竪堀)、土橋、石積み?、遺構案内板、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
201311/17
歴史等
座光寺城の平時の城・座光寺北城は、室町時代応永年中(1394~1428)以前から座光寺氏及びその支族が居を構えていた。
座光寺氏は、諏訪大祝(おおほり)家「神(みわ)氏」一族で神之峰(かんのみね)の知久氏と同族と考えられている。
一方、座光寺南城は、戦国時代末期の天正10年(1582)に織田信長の伊那侵攻に備えて築かれたとか、或いは、その後、徳川家康の下で豊臣政権に対抗して築かれた等々、諸説あるが、それらを裏付ける史料がない。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
200~300mほど北南にある北城(座光寺北城)が居住的要素が強いのに対して、この南城(座光寺南城)は詰めの城として、「防御専一」に築城したとみられます。
しかし、詰めの城が高い山にではなく、北城と同じほどの高さしかない並列した山に存在するという形態は奇妙で、果たして詰城といえるのか私には疑問でした。尤も、沢を隔てて2つの城が隣接して築かれている例は、下伊那地方では他にも幾つか確認されているようです。
しかも、伊那地方には平坦な台地上に曲輪を連郭式に並べ、その曲輪間を堀切で区画した平山城が多いが、座光寺南城は起伏のある山を利用して築いたもので、他の地域で一般的に見られる所謂普通の山城であることを考えるとそうなのかもしれませんね。
さて、南城は、そういった普通の山城故か、開発もされず、曲輪・土塁・空堀等々の遺構が良好に残っています。
城は、南北に長く、どちらからも登城できるが、私は、北側の馬出しから登城し、南側山麓の麻績神社へ下りました。
登城道は遊歩道として整備されている上、急坂も少なく、次々と現れる堀切や土塁、土橋、曲輪などを見ながら楽しく散策できます。ただ、私のコースだと、麻績神社から駐車場所までが結構急坂で、20分近く歩いて戻るハメになりました(苦笑)。逆コースをお薦めします。
また、各要所に縄張図が設置され、現在地が分かりやすいのが有難かったです。
(2013/11/17登城して)
ギャラリー
座光寺南城縄張略図(遊歩道案内図) ~現地説明板より~
登城口(北側から)
座光寺小学校校門の前の道を北西え300mほど進むと少し広い道路(フルーツライン)に突き当たるが、その20~30mほど左手前に立つ説明板の脇から登城でき、私はここから登城したが、ここには駐車できる場所はないので、耕雲寺の参拝用駐車場か座光寺小学校と保育園の間の駐車スペースを利用して下さい。また、元善光寺の西約200mにある麻績神社から登ることもでき、駐車場もあり、こちらから登城することをお薦めします。私が歩いたこのコースだと、麻績神社から駐車場所までが結構急坂で、20分近く歩いて戻るハメになりました(苦笑)。
北曲輪手前の土橋
登城口から2分ほど堀底道を歩いていくと、正面に土橋が見えて来ます、土橋両側の堀切はかなり大規模で、左側は竪堀となり山裾で落ちていってます。また、右側は天然の谷に手を加えたもののようで、大規模な空堀になっています。
北曲輪への道
土橋を渡って進むと、またちょっとした土橋が現れます。その向こうは北曲輪です。
北曲輪
北曲輪は、低い土塁で幾つかに区画されています。また、段差もあります。
大堀切
北曲輪から本丸へ向かって歩いて行くと、大堀切が現れます。北曲輪と本曲輪との間は鞍部であり、天然の大堀切となっています。
石積み
大堀切を渡り、本曲輪へ向かうと、左側に石積みらしきものを見付けましたが・・・?
本曲輪西下の段曲輪
本曲輪下には、腰曲輪がありますが、特に、西下は多くの段曲輪が確認できます。
本曲輪虎口
本曲輪
本曲輪の西側半周は土塁で囲まれています。写真右上に虎口が見えます。
本曲輪土塁
本曲輪南東下の腰曲輪
本曲輪の南東下にも腰曲輪が設けられ、東屋が建てられていますが、決して眺望はよくありません。こちら側も、2段ほどの段曲輪になっています。
西曲輪への土橋
西曲輪の手前も堀切で断ち切られ、土橋が架かっています。写真手前は、本曲輪下の腰曲輪で、土橋の向こうが西曲輪です。
西曲輪手前の堀切
土橋の左側(東側)の堀切は、竪堀となって山裾へ延びていますが、堀底道としても利用されていたようです。西曲輪を見たあと、この堀底道を下りて行きました。
秋葉社跡
西曲輪の先端部には秋葉社が鎮座していたようで、今は「秋葉神社」と刻まれた石が立てられていました。
西曲輪奥の大堀切
西曲輪先端部の奥は急崖になっていますが、よく見ると大堀切です。この堀切は、竪堀となって、この後行く虎口付近へと落ちて行っています。
西曲輪奥の堀切から延びてきている竪堀
先程の西曲輪手前の堀切の底を歩いて降りて来ると、城内への、もう一方の虎口へ出ますが、その手前(城内側)に、西曲輪奥の堀切が竪堀となって落ちてきています。
虎口
虎口から少し入った左側(写真中央やや左)が、西曲輪奥の堀切が竪堀となって延びてきている所になります。