登城道(中腹)から頂上部の主郭方面を仰ぎ見る
武田信玄の強敵村上義清の本拠
所在地
長野県埴科郡坂城町坂城
形状
山城(標高:816.5m、比高:386.5m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、堀切、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2004/04/29
歴史等
葛尾城がいつ誰の手で築城されたのかは定かではない。村上氏の出自には諸説があり、清和源氏頼信の流れを汲む顕清が嘉保元年
(1094)に信濃国更級郡村上郷に流罪となり、その子の為国が村上氏を称したのがはじまりという。為国は南北朝時代(1336~95)
の末期頃、千曲川右岸の坂城(葛尾城)に移り勢力を拡大した。
嘉吉元年(1441)将軍足利義教が家臣の赤松満祐に謀殺される(嘉吉の変)と、重臣の細川持之と畠山持国との権力争いが始まり、翌年、
信濃守護の小笠原正透が死亡し、後継者争いが生じて信濃国内も戦国の様相をみせた。その間隙を狙って自領を拡大していった村上顕国・
義清父子は、北信で最大の勢力となり、義清と武田信玄との激しい戦いが繰り広げられた。
天文17年(1548)2月には攻め入った信玄を上田原で破り、武田方は板垣信方・甘利虎泰ら重臣が戦死した(上田原合戦)。さらに、
天文19年(1550)には、戸石城攻めの武田軍の撤退に際し追激戦を行い、
武田軍を散々に打ち破った(戸石崩れ)。
しかしこの時、既に真田幸隆の裏工作により、葛尾城内の清野氏と寺尾氏は信玄に内応していた。
天文20年(1551)5月26日、真田幸隆が戸石城を乗っ取り、
天文22年(1552)信玄は攻勢に転じた。義清の属将、屋代政国(荒砥城主)
、塩崎氏(塩崎城主)らの内応もあり、4月9日、葛尾城を攻め自落に追い込んだ。義清は葛尾城を棄てて逃亡し、越後春日山城の長尾景虎
(後の上杉謙信)を頼った。
義清は、5千の兵で反撃を試み(第1次川中島合戦時)
葛尾城に城代として入った信玄の家臣於曾源八郎を討ち取ったが入城はせず塩田城に立て籠もった。
信玄は一旦兵を退いた後、8月塩田城包囲のために進軍すると、既に落ち目の村上義清は8月5日、城を捨てて越後を頼った。
その後、関ヶ原合戦の頃までは使われたようである。
『歴史と旅・戦国大名総覧(秋田書店刊)参照』
現況・登城記・感想等
新田次郎の「武田信玄」に何度も出てくる村上義清の本拠地であり、ここも真田幸隆の謀略による城落としの本領発揮の城である。
途中休み休みながら登ったとは言え、本丸まで1時間近くかかった。帰りは姫城経由でと思い違う道から降りたが、
案内板もなく道に迷ったらしく姫城には辿り着かず、結局1時間近くかかって下山した。
とにかくきつい。急傾斜なだけでなく、岩が砕けたような砂利で滑りやすく、岩場も含めて結構危険な箇所も多い。
今まで登った山城の中でも最高に厳しい山城かもしれない。
見る人によっては、構造の単純さや古さから戸石城あたりと較べて遅れていると評価する人もいるようだが、
私にとっては、こんな所は兵糧攻めか内通以外に考えられない。
遺構等は少なくちょっと物足りないが、山頂からの景色は最高で、上田側の景色だけでなく、反対側にはアルプスの山並みまでよく見える。
(2004/04/29登城して)
ギャラリー
葛尾城址遠景
村上氏居館(満泉寺)
登城道
松の木が多く、滑り易く、結構険しい道であった。
登城道
躑躅の花が多かった。下の方に見えるのは坂城町。
葛尾城主郭からの景色。千曲川の向こうには北アルプス。
葛尾山の頂上にある葛尾城主郭跡