大手橋と星形水堀
奥殿藩大給松平11代藩主乗謨が幕末に稜堡式城を築き三河より移る
別名
桔梗
所在地
長野県佐久市臼田町字田口、田口小学校
形状
稜堡式平城
現状・遺構等
現状:田口小学校
遺構等:石垣、水堀、土塁、台所櫓(解体復興、移築)、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2001/08/19
2007/10/14
歴史等
三河奥殿藩の大給松平氏は本拠三河に4千石、信濃佐久に1万2千石を領していた。宝永4年(1707)4代乗真の時、
大給から奥殿に移されてから、
7代152年間、三河に本拠・奥殿陣屋を持ちながら、
佐久にも陣屋を置いて、領内22ケ村の統治を続けてきた。
11代藩主松平乗謨(のりかた)になり、幕末激動の状勢に応じて、
三河の本領が手狭なのと領地の大部分が佐久郡にあることを理由に信濃へ居館を移すことを幕府に許可を得て、文久3年(1863)移封した。
元治元年(1864)3月、フランスの築城家ボーバンの考案した稜堡式築城法(星形5角形のいわゆる五稜郭)を取り入れ着工、慶応3年
(1867)内郭はほぼ完成したが、全体は未完のまま明治を迎える。地字名から龍岡城と称した。
乗謨は、当時老中格・陸軍総裁を務め、蘭学に通じ西洋築城技術にも詳しかった。しかし藩財政が行き詰まり、明治4年(1871)6月、
廃藩置県を目前に龍岡藩は消滅し、城は翌明治5年(1872)取り壊された。乗謨は無城主大名なので正式には城ではなく陣屋。
『「現地説明板」、「奥殿陣屋跡説明板」、「大名の日本地図・中嶋繁雄著(文春新書刊)」参照』
現況・登城記・感想等
規模は大きくないが函館の五稜郭と同じ形をしている。
一部工事途中で終わっているようだが、いずれにしても、近代戦のための西洋式の城郭といいながら規模も小さく、
堀も狭く簡単に攻め落とされるであろう。趣味で造ったとしか考えられないような城である。
(2001/08/19、2007/10/14訪城して)
ギャラリー
大手門跡
現在、城内は田口小学校となっている。
水堀
函館の五稜郭と同じ形をしている。堀には、蓮が一面に。
北西部の堀
堀の奥に見える土橋は黒門への入城口。堀は、この土橋までで終わっている。
砲台下の石垣。
ここは未完成で、堀が出来ていない。
御台所櫓
当時は城の東側にあったが、昭和4年に移築保存の為西側隅に移動した。
北入口の枡形
龍岡城の北の入口にあたり、敵の侵入を防御し、
攻撃的機能も兼ね備えた鉤の手状の枡形として良好な状態で保存されている。五稜郭より北西方向100m程の所の道路脇にある。
資料館内の模型