加賀 大聖寺城(加賀市)

本丸西側の土塁と石碑(山口玄蕃頭宗永公之碑)

信長の加賀侵攻で攻略後、溝口秀勝により修築され、その後山口宗長が居城

所在地

石川県加賀市大聖寺地方町、錦城山公園

形状

平山城&陣屋

現状・遺構等

現状:山林(錦城山公園)
遺構等:曲輪、土塁、空堀、石碑、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2005/05/04

歴史等

標高67mの錦城山には、南北朝以後大聖寺城が構築され、加賀の一向一揆の際にも重要な軍事拠点となっていた。
織田信長が加賀に侵攻し、天正3年(1575)に攻略し戸次氏、拝郷氏、溝口氏が城主を務める。 現在の配置は豊臣秀吉家臣溝口秀勝が天正11年(1583)大聖寺領主となって4万4千石で封ぜられた頃に修築したと推定される。 本丸をはじめ二の丸・鐘ケ丸などが巧みに配置され、大規模な土塁と空堀で防備を固めていた。
慶長3年(1598)秀勝が越後新発田に転封した後、 小早川秀秋の重臣山口宗永が7万石の城主となった。
宗永は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦時に西軍に与したため金沢城の前田利長と敵対した。 同年8月3日早朝、山口軍1千2百に対して前田軍は2万5千の圧倒的兵力で攻められ落城、自刃した。落城後、 利長はすぐに修築し城代を置いたが、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。
廃城後の寛永16年(1639)、金沢城主前田利常の三男利治が7万石を分封されて大聖寺城の山麓に陣屋 (大聖寺陣屋)を築いて以降、大聖寺前田氏は14代続き明治を迎える。藩政時代は、錦城山には一般人の入山を禁じた。
『現地説明板参照』

現況・登城記・感想等

錦小学校の裏山が、大聖寺城址の錦城山である。
錦城山は、山麓の平場をコの字で囲んでおり、かなり大規模な城であったことが窺われる。
右側の山の東側(別次丸下)は、まさに絶壁になっており、岩牢らしきものがあったが、多分戦時中の防空壕跡だろうか?
駐車場の南から左(南)側の山麓沿いを登城した。左側の山に東丸と鐘ケ丸があるらしいが、まずは本丸へと登って行くと本丸があり、 山口玄蕃の碑があった。ここには土塁の跡らしきものもあった。さらに進んで行くと馬洗い池というのがあった。そしてその後、二の丸・西丸・ 三の丸・戸次丸(べっきまる)と回った。二の丸には壊れかけたようなブランコ等の遊戯施設があった。 以前はというより今も児童公園になっているのであろう。戸次丸は最初に見た絶壁の上にあたるようだ。
いずれにしても、この城跡は、江戸時代には立ち入り禁止にしていたこともあり、結構遺構が残っているにも関わらず、 整備状態もあまりよくないし、案内板等があまり無く残念だ。
(2005/05/04登城後)

ギャラリー

案内図(現地案内板より)

大聖寺城址(錦城山公園)全景
上の案内図のように、城址は山麓の平場をコの字で囲んでいる。

戸次丸下の岩壁
右側の山の東側(別次丸下)は、まさに絶壁になっており、岩牢らしきものがあったが、 多分戦時中の防空壕跡だろうか?

贋金造りの洞窟
駐車場の南から階段を上がっていくと、すぐに「贋金造りの洞窟」があった。明治元年(1868)、 明治新政府より越後戦争の弾薬供出を命ぜられた大聖寺藩は。この洞穴の中で贋金を製造した。通過として広く通用し、 政府の命を果たした後に露見し、製造責任者の市橋波江に切腹を命じた。然し、子息には倍の禄を与えて功に報いた。 この事件をパトロン事件というそうな。*パトロンとは弾薬の意

本丸
本丸は段差がある。

馬洗池
本丸から二の丸へと向かうと、途中左側に馬洗池というのがあった。

二の丸
子供用の壊れかけたような遊具があったが、ほとんど使われていないようだった。そりゃあ子供も、 こんな山の上で、しかも暗い所へわざわざ来なくても、都会と違って遊ぶ所なんかいくらでもあるようなあ!

西丸
西丸には東屋があるが、荒れ放題で強烈な藪だ。これじゃ東屋まで入って行くのも遠慮するよね。

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