越前 疋壇城(敦賀市)

疋壇城本丸東側の空堀と本丸石垣

越前朝倉氏の最南端防衛拠点の城、織田信長の越前進攻にて落城

読み方

ひきたじょう

別名

疋田城

所在地

福井県敦賀市疋田
【アクセス】
国道8号で敦賀市街方面から南下し、国道161号線と分岐する「疋田信号」を右へて国道161号線へ入ってすぐの路地を右折すると疋田集落を南北に走る旧街道へ出る。城跡は、集落の西側高台上になる。この旧街道を右(北)へ進んで、又、すぐに左(南)へ急角度に曲がり登って行くと本丸下へ出る。

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】 畑地、空き地等
【遺構等】 曲輪、土塁、石垣、櫓台(天守台)、空堀、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2013/05/18

歴史等

疋壇城は、室町時代の文明年間(1469~1487)に朝倉氏の部将・疋壇久保によって築かれた。疋壇久保は「今昔物語」の芋粥の主人公として知られる藤原利仁を祖とすると伝わる。
この地は、柳ヶ瀬越・塩津越・海津越の主要江州路が集まる交通軍事上の要衝であり、疋壇城は越前朝倉氏の最南端防衛拠点として築城されたものであるが、奈良時代から平安時代にかけては、鈴鹿関・不破関とともに京を守る重要な軍事施設である日本三関の一つ「愛発関(あらちのせき)」が置かれていた地でもある。
元亀元年(1570)、織田信長による越前攻略の際には、天箇山城・金ヶ崎城と共に落城し破壊されたが、近江小谷城主浅井長政が信長に反旗を掲げたため、疋壇城も朝倉方によって修築された。
天正元年(1573)8月、信長は元亀元年の失敗を考え、近江小谷城の浅井父子を攻略したのち越前へ向かった。迎え撃つ朝倉義景は、近江柳ヶ瀬まで出陣したが、先陣が敗北したのを知り疋壇城・金ヶ崎城を目指して退却したが、織田勢の追撃によりついに一乗谷までも落とされ朝倉氏は滅亡した。この時、疋壇城も織田勢によってことごとく破却された。
『「日本城郭大系11」、「現地説明板」より』

現況・登城記・感想等

疋壇城があった敦賀市疋田は、越前と京を結ぶ西近江路と越前と江戸を結ぶ塩津街道の合流点にあったが、現在でも西近江路が国道161号線、塩津街道が一部コースを変え国道8号線となっており交通の要所となっている。
国道8号と161号との合流点そばの細い路地を南西へ入ると疋田の集落である。疋田の集落は、往時は交易路として知られ、物資を運搬するための舟が敦賀と疋田とを往来していたという舟川が流れ、現在も川に沿って両側に住宅が建ち並んでいる。疋壇城跡は、集落の西側の比高差20mほどの高台の上にある。
疋壇城の縄張りは、一段高い本丸を中心に、南北に不整形な曲輪を幾つも配置されていたようである。
本丸は、南北65m×東西45mほどの長方形で、本丸内は畑になっているが、周囲をめぐる高さ2mほどの土塁が良好に残り、南東部分の土塁上は、さらに一段(1mほど)高くて広い土壇があり、石垣で固められている。坂道を登って行く途中に「天守台登り口」との案内板があったが、かなり大きな櫓が建てられていたのであろう。
土塁の外側周囲は石垣で固められ、その周囲は幅15m、深さ6mほどの深い空堀をめぐらしていたようで、西側と南東から東側にかけて良好に残る空堀と石垣が確認できる。
本丸の南下には曲輪があったようだが、明治に入って西愛発小学校が建てられたため破壊されてしまい、今はだだっ広い空き地(一部ゲートボール場)になっているが、その東側下を固める石垣が薮の中に良好に残っている。否、隠れていると言うのが正解かも(苦笑)。
本丸の北側は城址地形が比較的良好に残っているようだったが、入場口が分からなかった上、時間もなかったので今回は断念(;>_<;)。
いずれにしても、予想外に、規模が大きい上、遺構も良好に残る見応えのある城跡でした(*^_^*)。
(2013/05/18登城して)

ギャラリー

本丸南側の曲輪跡(西愛発小学校跡の空き地)から本丸を
本丸の南下には曲輪があったようだが、明治に入って小学校が建てられたため破壊されてしまい、今はだだっ広い空き地(一部ゲートボール場)になっている。写真中央奥は櫓台(天守台?)。
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櫓台を見上げる
櫓台(天守台)は、南曲輪跡から6~7mほどでしょうか。石垣こそ積まれていないが、如何にも天守台跡らしい形がかっこいいですね。
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櫓台(天守台?)へ
櫓台上へは、本丸の西側から登る道が付けられていますが、そこには「天守台登り口」という案内板が立っています。果たして、疋壇城に天守は建っていたのでしょうか?
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本丸跡
登り切ると、良好に残る本丸跡が見えます。本丸は、南北65m×東西45mほどの長方形で、本丸内は畑になっているが、周囲をめぐる高さ2mほどの土塁が良好に残っている。
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土塁と櫓台
本丸をめぐる土塁の南東部分には、さらに一段(1mほど)高くて広い土壇(櫓台?、天守台?)があり、周囲が石垣で固められている。
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櫓台上に建つ城址碑
櫓台の広さは10m四方程度で、中央部に疋壇城址の石碑が建てられている。
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本丸南東虎口へ向かう坂道(中央奥)と本丸南東部の空堀(右手前)
南曲輪から本丸への虎口は、本丸南東部にあったようで、今も坂道がある。但し、虎口には柵(獣除けの電線)があり入城はできません。坂の下(空堀脇)には説明板と城址碑が建てられている。

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本丸南東部の空堀
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本丸南東部角の空堀
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本丸東側の空堀と石垣
本丸東側の空堀と本丸石垣は良好に残り、当城跡で一番の見どころでしょう。
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本丸西側の空堀
本丸西側の空堀も良好に残っている。しかも、この空堀は、本丸のさらに北側の曲輪下まで続いているようだった。
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南曲輪東側下の平坦地と石垣
南曲輪(小学校跡)の東側下には、石垣が薮の中に良好に残っている。否、隠れていると言うのが正解かも(苦笑)。また、藪になってはいるが、明らかに傾斜地を削った平坦地が確認できる。恐らく、曲輪跡でしょう。
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石垣をズームアップ
一部、藪からかなり出ている石垣を見付けたのでズームアップ。
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疋田集落
疋壇城の東側にある疋田の集落は、往時は交易路として知られ、物資を運搬するための舟が敦賀と疋田とを往来していたという舟川が流れている。現在も川幅は狭くなっているが、川に沿って両側に住宅が建ち並んでいる。なかなかの光景です。
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コメント

北近江人(2020/12/01)

滋賀県に疋田という姓がありますが、多分ここがルーツでしょう。
本丸跡の両側に残る深い堀切が印象に残っています。落城の際の城を守っていた女性の悲話も。
それと、この辺りはすぐそばをJR北陸本線が通っている事もあって鉄道マニアの撮影ポイントらしく、2回めの見学の際は大勢の人々がカメラを携えて列車を待っていました。

タクジロー(2020/12/02)

北近江人さま
いつもコメントや情報をありがとうございます。
疋壇城へ登城したのは、もう7年も前ですが、想定していたよりも遥かに見応えのある城跡だったのをよく覚えています。
なるごど、鉄道マニアにとっては、確かに丁度良い撮影ポイントになるかもしれないですね。
今後とも宜しくお願い致します。

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