三河 田峯城(設楽町)

大手門跡前から本丸に建つ御殿を見上げる

山家三方衆・田峯菅沼氏の城、長篠合戦後に敗走する勝頼の入城を拒む

別名

蛇頭城、竜の城、田嶺城

所在地

愛知県北設楽郡設楽町田峯
【行き方】
新城方面から北上し、県道389号線へ入り「稲目トンネル」を抜けると、すぐに田峯橋がある。橋を渡ったら左(西)へ曲がり、すぐまた右へ (案内板有)。あとは、九十九折の細い道を登って行く。
国道257号線で北上してきた場合は、「田峯信号」を南へと県道389号線に入り、200mほど南下すると右手に案内板があるので、 それに従って右折し、登っていく。

形状

山城(標高約500m)

現状・遺構等

現状:城址公園
遺構等:再現?(御殿・櫓・城門・厩)、曲輪、空堀、石碑、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2010/02/11

歴史等

三河の北部山岳地帯には、「山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)」と呼ばれる豪族が蟠踞していた。田峯城の菅沼氏、長篠城の菅沼氏、 作手の亀山城の奥平氏の3氏である。 3家は幾重にも姻戚を結んで固い団結を誇っていた。
菅沼氏は南設楽郡作手村菅沼に興った豪族で、菅沼定成のときに田峯に城郭を構えた。以後、田峯菅沼氏は今川氏に属したが、 定継のときに今川氏親が没すると、享禄2年(1529)安祥の松平清康に従った。 その清康も「守山崩れ」で家臣に殺されたのを機に三河は織田氏の侵攻するところとなり、定継は亀山城の奥平定勝らと共に織田氏に気脈を通じた。
その後、桶狭間合戦後の永禄4年(1561)、定継の子定忠は徳川家康の麾下に入った。
しかし、元亀2年(1571)武田信玄の勢力が三河に伸びてくると武田方に属した。そして、同年、信玄が大野田城を攻めた時から、 同3年の三方ケ原合戦、それに続く天正元年(1573)の野田城攻め、 同3年の長篠合戦に至るまで武田方として三河侵攻に加わった。
しかし、長篠の合戦の大敗で、勝頼とともに敗走し、田峯城に入ろうとしたが、留守居役の叔父定直等の叛逆にあい、入城できず、 尾根伝いに山越えをして武節城へ入った。定忠は、勝頼を甲斐に見送った後、武節城に立て籠もっていたが、 奥平氏に攻められて信濃国伊那郡に落ち延びていった。復讐を誓った定忠は天正4年(1576)7月14日、 田峯城に夜襲をかけて謀反の一族96人を惨殺した。
天正10年(1582)勝頼が天目山で死ぬと、同年5月、定忠も信濃国伊那知久平において牛久保城主・牧野康成と戦い討死した。
その後、道目記城(どうめぎじょう)城主で定直の嫡子定利が、宗家菅沼氏の遺領を継いだが、天正18年(1590)家康の関東入国に際して、 上野国吉井2万石へ移封となったので、 その頃に田峯城も廃城となったのであろう。
『「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「日本城郭大系9」、「田峯城パンフレット」等参照』

現況・登城記・感想等

田峯城は、山深い奥三河の標高約500mの丘陵上にある。日本城郭大系には比高50mとあるが、 山麓からは明らかに150m以上はある。
車で、細い九十九折の道を登っていく時は、対向車に遭わないように願いながら運転していった。昔は、当然車もないし、こんな山道を歩いて (馬かもしれないが)登ったのだ。強者(勝頼)も敗者となり、こんなところを登って、やっと城に着いたものの、城には入れてもらえず、 さらに山奥の武節城まで落ち延びて行ったのだ。惨めな想いだっただろうなあ。
さて、新城から山間部へ入って行くに従って、雨が強くなるだけでなく、益々、霧も濃くなって、田峯城址へ着いた時には、 近くの写真もろくに撮れないほどであった。待っていても晴れる気配はないので、雨と濃霧の中の城めぐりとなった。
城址は綺麗に整備されてというか、されすぎている?が、駐車場脇から、 見える段曲輪や空堀と本丸跡に再現された御殿の光景はなかなかのものだ。ただ、あまりの濃霧でぼんやりとしか見えなかったのが残念だった。
本丸跡に本丸御殿をはじめ、本丸大手門と枡形虎口、搦手門、厩、物見台などが、それらしく再現されていて、それはそれで良いのだが、 これらは本来あった場所に再現されたものなのだろうか、どうも疑わしいが・・・?
(2010/02/11登城して)

ギャラリー

縄張絵図

大手門跡の手前の空堀と木橋
橋を渡ったところに大手門があったと考えられる。空堀には木橋が架けられ、事ある時には、橋をはずし、 ここで敵の侵入を防いで戦闘態勢をとったと考えられる。

【曲輪群】
田峯城は、 段曲輪によって構成された城郭である。
㊧表曲輪、㊨無名曲輪
㊧橋を渡り、大手門をくぐり大手曲輪を通って入って行くと表曲輪へ出る。表曲輪は、田峯城入口に近く(表側) にあることから称されている。㊨無名曲輪は、少し斜面になっている。言い伝えなどに名前が出てこない曲輪のため、このように称される。
 

㊧井戸曲輪、㊨蔵屋敷
㊧井戸跡もなく、掘っても水の出ない地形ではないため、天水を貯える設備があったようである。 ㊨蔵があった場所で、当時この蔵には、食物や武器などが保管されていたと考えられる。
 

㊧畷曲輪(あぜくるわ)。㊨道寿曲輪(どうじゅくるわ)
㊧狭い面積の曲輪であることから、その意を示す畷の字が使われたと考えられる。 ㊨5代目城主菅沼定忠とともに長篠合戦に出陣した家老城所道寿の屋敷跡であったようである。
 

【本丸跡】
本丸には「御殿」のほか、「厩」、 「物見台」、「本丸大手門」を当時の建築方法で再現した。
御殿
一層入母屋書院造、切妻中門、切妻色台、柿葺唐破風付き、板葺き

本丸大手門
板葺きの棟門で再現されているが、本丸大手門の場所は、空堀のところにあった大手門とは別に、 元々この場所にあったのだろうか?

本丸大手門枡形虎口
大手門の後ろに廻ってみると、枡形虎口になっている。これは、往時の完全な遺構なのだろうか? 虎口から山裾へ下りて行く道があったが、柵で、ここから外へ出られないようになっているのが残念だった。
 

搦手門
空堀に架かる橋を渡り、大手門跡を通って、道なりに登って来ると搦手門へ到達するのも、 何か変な感じがするが・・・?

物見台
天気が良ければ、この上に登ると素晴らしい眺望で、200m下の豊川も見下ろすことが出来るらしいが・・・。 この霧では・・・ザンネンムネン!

厩と供養搭
切妻一層の板葺きで再現

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