石田城址全景
吉田城主池田輝政の重臣片桐半右衛門が築いた城
所在地
愛知県新城市石田字西金国
【アクセス】
国道301号線「石田万福」信号を500m程西進した5本目の路地を左折し、民家の間を抜けていくと左手に泉蔵寺がある。寺の右(西)
側の道を進み、畦道のような農道を入って行くと、右手に土塁が見える。それが城跡である。
車は、農道のなるべく邪魔にならないような所に置いた。
形状
平城(崖端城)
現状・遺構等
現状:田園、曲輪内は茶畑
遺構等:曲輪、土塁、堀、標柱
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2010/11/28
歴史等
天正18年(1590)、池田輝政は豊臣秀吉の命によって吉田城に15万石で入った。
輝政の重臣片桐半右衛門はそのうちの7千石で新城城の城主となった。
翌19年(1591)から半右衛門は新城城の西南、石田村に新たな城を築きはじめ、天正20年(1592)に移ったと云われている。
慶長5年(1600)、池田家は姫路城に移り、
石田城は廃城となった。
現況・登城記・感想等
全く期待していなかったが、土塁と堀が良好に残っているのに驚いた。一発芸ならぬ二発芸といったところだ(笑)。
基本的には単郭方形の城であるが、1辺100mほどある広い主郭である。
その主郭の2方をめぐる土塁は、高さ6~7mほどあり、幅は10m以上ある見事なものだ。土塁のない部分は豊川と野田川に接して、
崖に守られている。
土塁の外側には堀跡が残っているが、私には、この堀跡と土塁のコラボレーションが、何ともかっこよく思えた。
この堀跡も幅10m以上ある広いもので、2段の高さに分かれている。恐らく、陸(北西)側の堀の方が低くなっているので、
こちらは水堀になっていたのであろうか。また、北東側の堀は豊川へと落ちていっているようだ。
(2010/11/28登城して)
ギャラリー
主郭
土塁に囲まれた主郭は茶畑になっている。
土塁上にて
主郭の2方をめぐる土塁は、高さ6~7mほどあり、幅は10m以上はゆうにある見事なものだ。
土塁上に立つ城址碑
土塁北東部隅に城址標柱が立っているが、城址名は外側に書かれており、土塁から落っこちそうで、
写真に撮るのが大変だった(苦笑)。
北から北西部にかけての堀跡と土塁
車を置いて、土塁の見える城跡に向かって歩いて行くと、右手前方にこの堀跡が見えてくる。
土塁とのコラボレーションが実にかっこいい!
この堀は、北東部の堀と区分けされ、少し低くなっているが、往時は水堀だったのかも?
北東部の堀①
この辺りの堀幅は最も広く、15m近くある。
北東部の堀②
北東側の堀は豊川へと落ちていっているようだ。