だだっ広いⅡ郭跡(左の土壇上がⅠ郭跡)
桶狭間合戦時、家康が鷲津砦と丸根砦の包囲網を掻い潜り兵糧を運び入れた城
所在地
愛知県名古屋市緑区大高町城山、大高城址公園
形状
平山城(標高20m)
現状・遺構等
【現状】城址公園、市街地
【遺構等】曲輪、土塁、空堀、土橋、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
歴史等
大高城は室町時代末期の永正年間(1504~20)に花井備中守が築城したと伝えられる。
その後、暫くは歴史に主立って登場しないが、永禄2年(1559)、今川義元が三河に進出、尾張を経て上洛を目指した。それをみて織田信長方の鳴海城主山口教継が寝返って今川方に加勢し、沓掛城と大高城を攻略した。
防衛拠点を失った織田信長は、鳴海城と大高城を遮る地点に鷲津砦や丸根砦を築き、大高城を牽制した。大高城は今川義元の武将鵜殿長照が守っていたが、信長軍の包囲と兵糧不足に苦しみ、大高城に兵糧を送ることが急務となった。
この兵糧送りを命じられたのが松平元康(後の徳川家康)である。元康は鷲津砦と丸根砦の目を掠めて、見事に兵糧を大高城に運び入れた。加野厚志の小説「本多平八郎」では、大高城に一丁(約109m)の所まではゆっくり進み、そこから一気に入城したとある。兵糧を得た城兵たちは元康の将兵と共に城を打って出て、鷲津砦と丸根砦を攻略した。義元は喜び、鵜殿長照に替えて松平元康に大高城を与えた。
しかし、今川義元は、桶狭間で信長の奇襲を受け討死した。その一報が伝わり今川勢が総崩れとなっても、確報が伝わるまで元康が大高城を動かず、戦を続けたという話は有名である。
桶狭間の合戦後、戦略的価値の無くなった大高城は廃城となったが、元和2年(1616)尾張徳川藩家老の志水忠宗が1万石を領して館を設け、代々続いて明治維新を迎えた。
訪城日
2004/02/10
現況・登城記・感想等
大高城といえば、桶狭間合戦の際に今川義元に先鋒を任された家康(松平元康)が、織田信長が大高城への備えとして築いた鷲津砦と丸根砦の包囲網を掻い潜り兵糧を運び入れた城であり、家康活躍の舞台の城である。
大高城跡は名古屋市街地(住宅地)の真ん中にあり、多くが改変されてはいるとはいえ、Ⅰ郭・Ⅱ郭など多くの曲輪や空堀等の遺構がよく残っている。
大高城から大高川を挟んで、北東方向約800mほどと東方向約1kmほどの、まさに目と鼻の先の丘陵に鷲津砦と丸根砦があるが、大高城のⅡ郭跡北東端から眺めると両砦跡がよく見え、今川方にとってこの両砦が大高城と鳴海城の間に打ち込まれた楔であったことがよく分かり、家康の兵糧運びの情景が目に浮かぶようで戦国時代に想いをふけってしばらく眺めていた。
(2004/02/10登城して)
ギャラリー
大高城鳥瞰図(余湖くんのホームページより)
現在、大高城のⅠ郭は東西約70m、南北約30mで、北面は比高差7~8mの急な切岸となっている。Ⅰ郭から2mほど低いⅡ郭は東西130m、南北50mと広大な平坦地であるが、北東部半分は南西部分よりさらに一段低くなっていることから、郭内を区画して使用していたと思われる。また、往時はⅠ郭との間には横堀が存在していたという。
また、Ⅱ郭とⅢ郭間の土橋周辺は両側の横堀とともに旧状をよく残し、特に土橋西側から延びる横堀は幅15~20m、深さ約7mあり、Ⅰ郭の北西へと回り込んでいる。
「愛知の山城 ベスト50を歩く 愛知中世城郭研究会・中井均著(サンライズ出版発行)より」
Ⅲ郭跡からⅡ郭跡へ向かう
写真奥の狭くなっている所はⅡ郭とⅢ郭間の空堀を渡る土橋
Ⅱ郭とⅢ郭間の空堀
空堀の両側に木々が生えていて写真では見辛いが、幅15~20m、深さ7mほどのかなり規模の大きな空堀で見応えがある。
東西に細長くてだだっ広いⅡ郭
土橋を渡ると、奥行きの長い(東西に細長い)Ⅱ郭跡へ出る。Ⅱ郭は東西130m、南北50mと広大な平坦地で、北東部半分が南西部分より一段低くなっていることから、郭内を区画して使用していたと思われる。
縄張図も確認しないで登城したため、写真左側の土壇上がⅠ郭であるが、この平坦地が主郭と思い、主郭周囲の土塁とばかり勘違いしてしまいⅠ郭を見逃してしまいました(/。ヽ)。尚、往時は左側のⅠ郭との間には横堀が存在していたという。
Ⅱ郭北東端から鷲津砦方面を
鷲津砦と丸根砦とは尾根続きであり、丸根砦は写真よりやや右にあるが私のカメラでは入り切らず写真の圏外に。
Ⅲ郭からⅣ郭への堀底道
堀底道の奥がⅣ郭跡であり、江戸時代には尾張藩家老・志水氏の在所屋敷となっていた区域であるが、今は小規模なグラウンドになっている。