水堀跡
家康の生母「於大の方」の生家・水野氏の城
別名
亀城
所在地
愛知県刈谷市城町1丁目、亀城公園
形状
平城
現状・遺構等
現状:亀城公園
遺構等:曲輪、土塁、堀、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
1991/01/13
2008/06/05
歴史等
尾張・緒川城(知多郡東浦)の水野氏は知多半島から尾張南部までを勢力下におさめるが、天文2年(1533)、四代忠政は刈谷に新城
(刈谷城)を築いた。
忠政は駿河今川氏の保護下にあった岡崎の松平広忠に娘「於大の方」を嫁がせ、松平氏・今川氏と誼を通じた。婚儀翌年の天文11年(1542)
に岡崎城で竹千代
(後の徳川家康)が誕生している。
しかし、五代信元は天文12年(1543)父忠政が没すると今川氏を見限り、織田氏に属する。このため於大の方は離縁され、
水野氏と松平氏は敵対する様になる。
永禄3年(1560)桶狭間合戦で今川義元が織田信長に討たれると松平氏は今川氏と絶縁して独立、以後水野氏は松平氏譜代の家臣となる。
天正3年(1575)、信元は武田氏との内通を疑われ(佐久間信盛の讒言によるとされる)、織田信長の命により岡崎・大樹寺で殺害され、
信盛が城主となるが、天正8年(1580)信盛は信長により追放され、信元の弟・忠重(於大の弟)に刈谷城は返された。
忠重は一時、秀吉の命により伊勢神戸城へ移る。
文禄3年(1594)刈谷に帰城するが、慶長5年(1600)7月19日、宴席で石田三成の与党である加賀井重望に刺殺される。その後を、
長男・水野勝成が刈谷3万石を継ぐが、勝成は大和郡山へ転封となり、
替わって勝成の弟・忠清が刈谷城主となり、寛永9年(1632)、三河吉田城に移封されるまで、
この地は代々水野氏の父祖伝来の地であった。
その後は、松平(深溝)、松平(久松)、稲垣、阿部、本多、三浦氏と譜代大名が居城する。延享4年(1747)、三河西尾城より土井利信が2万3千石で入り、
土井氏9代で明治を迎える。
『参考サイト:ザ・登城』
現況・登城記・感想等
私にとって、刈谷は小さい頃から馴染みのある地であったが、何故か今回訪城するまで来たことがなかった。
刈谷城と云えば、
やはり家康の生母「於大の方」であろう。水野氏も、尾張と三河の国境にあるこの地で生き延びるのは大変なことであったろう。
血生臭い歴史が多々あったこの刈谷城であるが、
今では遺構らしき遺構はほとんど何も残っておらず、小山(本丸跡)の周りに堀があり、
朱色に塗られた橋が架かっているだけといった感じである。城址というよりも、綺麗な公園といったほうが相応しいのであろうか。
(1991/01/13訪城して)
本当に久し振りに登城した。17年以上振りである。
二の丸と本丸跡が亀城公園となっているが、もっと広かったと思ったが、結構狭い気がした。
亀城公園と言えば、やはり広い堀(池)である。この池と、そこに架かる朱色の橋、そして背景の小山(本丸)とのコラボレーションは、
いつ見ても良い。
本丸跡が整備され、綺麗な庭園になって、市民の憩いの場になっているようだ。
本丸隅の江戸時代初期に三階櫓が建っていた所には、大正5年に士族会員の会合場所として建てられた「十朋亭」が建っている
(現在の建物は昭和47年3月に改築されたものである)が、ここに三階櫓を復元する構想があるそうだ。
(2008/06/05登城して)
ギャラリー
濠跡
亀城公園と言えば、やはりこの広い堀(池)であろう。池に架かる朱色の橋、背景の小山(本丸)
とのコラボレーションがなかなか良い。
本丸
本丸跡が整備され、綺麗な庭園になって、市民の憩いの場になっているようだ。
左奥の一段高い所に建っているのが十朋亭。
十朋亭
本丸隅のこの場所には、江戸時代初期には三階櫓が建っていた。
大正5年に士族会員の会合場所として建てられた「十朋亭」が建てられた。現在の建物は昭和47年3月に改築されたものである。尚、
ここに三階櫓を復元する構想があるそうだ。