復元された本丸丑寅櫓
吉良氏本家(西条吉良氏)発祥の地
別名
西条城、鶴城
所在地
愛知県西尾市錦城町
形状
平山城
現状・遺構等
現状:西尾市歴史公園、市街地
遺構等:曲輪、石垣、水堀、姫丸辰巳櫓跡、復元本丸丑寅櫓、復元鍮石門(二の丸正門)、旧近衛邸
満足度
★★★☆☆
訪城日
2006/12/17
歴史等
承久の乱(1221)の戦功により三河国の守護に任ぜられた足利義氏が築城した西条城がはじまりと伝えられる。その後、
義氏は長男長氏に吉良西条城(西尾城)を3男義継に吉良東条を支配させ、
自らは次男泰氏とともに下野国足利に帰った。
以後、長氏の子孫は吉良氏と称し、14代三百余年西尾を支配し、戦国時代を迎えた。
戦国時代末には西三河に勢力を張る牧野成定が西条城主になるが、永禄3年(1560)今川義元が桶狭間の合戦で討死すると、
徳川家康は家臣の酒井政親に西条城に籠る牧野成定を攻略させ、政親を西条城主とした。政親はそれまでの西条を西尾と改めた。
城域はその都度拡張されたが、天正18年(1590)家康の江戸入封とともに西尾城主酒井重忠も武蔵国川越に移り、
代って江州より田中吉政が岡崎城と兼領して入城し、
三層の天守を二の丸に移築、三の丸の増築を行うなど、さらに城域の拡張されほぼ確定した。田中氏の転出に伴い、慶長6年(1601)
に本多康俊が西尾2万石の藩主として入った。その後、藩主は松平氏・本多氏・太田氏・井伊氏・増山氏・土井氏・三浦氏と頻繁に代るが、
いずれも譜代大名であった。
明和元年(1764)に山形から大給松平乗祐が6万石で入封して以来、
廃藩まで5代続いた。
『参照:「サイト・日本の城」、
「西尾市資料館パンフレット」』
現況・登城記・感想等
西尾は吉良氏本家発祥の地である。
西尾城は近世の城としては珍しく、天守閣(3層4階)が本丸でなく二の丸にあったとのことである(他には徳島城・津和野城等の例がある)。
今残る城域は、本丸・二の丸の一部だけであるが、小規模ながら歴史公園としてよく整備されている。
二の丸にあったという天守閣は勿論のこと天守台も残っていなくて、その場所には体育館が建っているが、一部残っている二の丸跡には、
京都にあった旧近衛邸の茶室と書院が移築されている。また、二の丸正門に当たる鍮石門が復元されている。
本丸跡には丑寅櫓が復元されており、埋立てられていた本丸水堀も復元されている。
また、姫丸跡南東隅には辰巳櫓台が残っている。
(2006/12/17訪城して)
ギャラリー
西尾歴史公園案内図 ~クリックにて拡大画面に~
今残る城域は、本丸・
二の丸の一部だけであるが、小規模ながら歴史公園としてよく整備されている。
本丸堀
埋立てられていた本丸水堀が復元されている。
㊧本丸跡、
㊨本丸表門跡
本丸は土塁が巡り、4隅に櫓が築かれていた。その中で東北隅の最も規模の大きい櫓が丑寅櫓である。
表門は、姫丸から本丸に至る位置に築かれた二階建ての楼門式の門で、規模が東西4.2m、南北7.9mで、高さ7.4mだった。
南側の土塁と石垣は失われたが、北側の丑寅櫓から伸びる土塁を断ち切る面に詰まれた野面積みの石垣(右写真)が残されている。
㊧丑寅櫓への石段、
㊨復元丑寅櫓
丑寅櫓へは自由に入ることができる。
復元丑寅櫓(本丸堀外側から)
丑寅(東北)
櫓は本丸隅櫓の一つで、城内で最も高い位置にあり、さらに6mの櫓台の上に建つ。他の櫓に比べ高く、三層で約10mある。
城下を一望出来ることから、物見櫓として利用されたものと考えられる。平成8年に再建された。
二之丸鍮石門
二の丸御殿の玄関にあった門で、大給松平氏が入城した際、
江戸城の本丸御殿の前門であった鍮石門の名に因み、この文字を充てたと考えられる。御殿に至る高貴な門という意味である。門は楼門式で、
規模が東西4.2m、南北8.2mで、高さ6.2mであった。二之丸は西尾城で最も重要で中心となる郭で、
中央に政庁である二之丸御殿を置き、北西隅には三層四階の天守を配置していた。
丸馬出
白砂を敷いた部分は発掘調査で明らかになった深さ2.5mの二重の堀の跡。
堀で丸く囲まれた部分は馬出。16C後半の戦国時代に築かれたと推定される。
㊧姫丸門跡、 ㊨資料館(丑寅櫓から)
姫丸門址の石碑の後ろの建物はトイレで、左側の建物は資料館。
姫丸は、南・東・北は塀により囲まれる狭小な縄張りで、本丸表門の馬出しの役割を担っていた。資料館の北方東側に姫丸門があり、
鍮石門前の広場と通じていた。
姫丸辰巳櫓跡
東西7.2m、南北5.5m、
高さ8.2mの二層の建物であった。