遠江 皆川陣屋(磐田市、旧豊田町)

田園と化した皆川陣屋跡に建つ立札

下野皆川城主の末裔の徳川旗本皆川氏が構えた陣屋

所在地

静岡県磐田市一言
【アクセス】
知恩斉の700m程南。国道1号「一言」信号から300m程南下した2本目の路地を右折して、100m程西進した右手(北側)に「皆川陣屋跡」の立て札が立っています。
知恩斉:磐田市一言797

形状

陣屋

現状・遺構等

【現状】 田園等
【遺構等】 移築門(知恩斉)、陣屋名の立札

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2014/05/15

歴史等

皆川氏は下野皆川城を拠点にして漸次支配権を拡大し皆川荘50余領を領する戦国大名となったが、天正28年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐で、皆川広照は後北条氏に味方をしたため、秀吉軍に攻撃され、 秀宗築城より6代170年間続いた皆川城は陥落した。
しかし、広照は密かに小田原城を抜け出し、 徳川家康を通じて降伏したので、皆川3万5千石は安堵された。
慶長8年(1603)、徳川家康の六男松平忠輝が信濃川中島藩に封ぜられた時、 かつての忠輝の傅役の功により、広照は信濃飯山7万5千石を賜った。
しかし、慶長14年(1609)広照は、主君忠輝の不行跡(私は疑問ですが)などの責めを負い所領没収となった。
翌年、皆川氏は赦免され、広照は常陸府中藩1万石で再封され、子の隆庸(府中藩2代藩主)も新治藩1万3千石で再封された。
しかし、府中藩3代藩主となった皆川成郷に子がなく常陸府中藩皆川氏は無嗣断絶したが、弟の秀隆、成之の系統は旗本として存続し、皆川陣屋の皆川氏は、旗本3千石で明治を迎えた。
尚、磐田市の皆川陣屋が、どちらの系統なのかは、いろいろ調べましたがわかりませんでした(/。ヽ)。
『「歴史と旅・戦国大名家総覧(秋田書店刊)」、「ウィキペディア」他参照』

現況・登城記・感想等

皆川陣屋跡は、ほとんどが田園と化し、「皆川陣屋跡」と書かれた立札が立っているだけですが、この北約700mほどにある「知恩斉」に陣屋門が移築現存しています。
また、陣屋とは関係ありませんが、陣屋跡から東南東約600m(国道1号線「警察署西」信号の100m西、道路沿い)に、武田信玄と徳川家康の間で行われた「二俣城の戦い」、「三方ヶ原の戦い」の前哨戦で、家康の退却戦である「一言坂古戦場跡」の碑が立っています。碑の立つところから、西北西に下りて行く坂道が「一言坂」で、坂道の途中にも「一言坂戦」についての説明板が設置されています。
この一言坂の戦いの後「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」という本多忠勝の武功を称える狂歌・落書が登場したしたのですから、本多忠勝ファンの私としては胸にくるものがあります。
尤も、今では何の変哲もない坂ですがネ(苦笑)。
(2014/05/15訪れて)

ギャラリー

知恩斉に移築現存する皆川陣屋門
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一言坂古戦場跡の碑と説明板
国道一号線沿いに「一言坂古戦場跡」の碑が立っています。碑の立つところから、西北西に下りて行く坂道が「一言坂(碑の向こう)」で、坂道の途中にも「一言坂の戦い」についての説明板が設置されています。
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一言坂の戦いの説明板
一言坂には、戦いの解説や、周辺の歴史コースなどが掲載され、皆川陣屋跡の場所も載っています。
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