常陸 府中城(石岡市)

石岡市民俗資料館の横に僅かに残る土塁

大掾氏の築城、江戸期には水戸徳川家の分家松平氏の陣屋が置かれる

別名

石岡城、府中陣屋

所在地

茨城県石岡市総社1丁目2-10石岡小学校、石岡市民俗資料館
石岡小学校:TEL0299-22-6105

形状

平城

現状・遺構等

【現状】 石岡小学校、石岡市民俗資料館
【遺構等】 移築陣屋門、土塁、説明板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2008/01/30

歴史等

府中城は、正平年間(1346~1370)大掾詮国(だいじょうあきくに)により築造されたといわれる。天正18年(1590) 12月大掾清幹が佐竹義宣に攻められて落城した。
落城後は、義宣の叔父佐竹義尚が城主となったが、慶長7年(1602)関ヶ原合戦で西軍に与した佐竹義宣は出羽久保田へ移封され、出羽六郷より六郷政乗が入封した。
元和9年(1623)には政乗が出羽本荘へ移り、皆川広照が信濃飯田より入ったが、皆川氏は三代成郷が没して継嗣なく断絶となった。
その後、元禄13年(1700)初代水戸藩主徳川頼房の5男松平頼隆が府中藩主に封じられ、この地に陣屋を置いた。以後、明治維新に至る約170年間、石岡地方は府中松平藩の支配下にあった。府中松平氏は水戸徳川家の分家として 「御連枝」と呼ばれた。
城の規模は東西約500m、南北約400m、本丸・二の丸・三の丸のほか、箱の内出丸・磯部出丸・宮部出丸を備え、また、堀・ 土塁をめぐらした堅固な城郭であった。
『現地説明板ほかより』

現況・登城記・感想等

府中城跡は石岡小学校となり、小学校の構内に石岡市民俗資料館があり、入口の両側に土塁が残っている。この入口は、元々虎口であったようだ。土塁上には榎の大木が何本も聳えている。
また、府中城のあった場所は常陸国の国衛が置かれた地でもあり、資料館の横に国衛の記念碑と府中城の縄張図のある案内板が並んで建ち、その横には陣屋門が移築されている。
(2008/01/30登城して)

ギャラリー

土塁
石岡市民俗資料館への入口の両側に土塁が残っている。この入口は、元々虎口であったようだ。土塁上には榎の大木が何本も聳えている。資料館の方の話によると、「榎は根元近くで枝分かれをしていて、材木には向かないので残ったのでは?」とのことであった。

石岡市民俗資料館
府中城のあった場所は常陸国の国衛が置かれた地でもあり、資料館の横に国衛の記念碑と府中城の縄張図のある案内板が並んで建っている。資料館も城関係のものはほとんど無く、国衛に関するものが中心である。写真右奥が土塁。

土塁と堀跡?
資料館の方によると、土塁の奥・市民会館の所は堀だったとのことで、今も写真のように少し低くなっている。

陣屋門
本柱の上に妻破風造の屋根がつき、本柱の控柱の上にも、本屋根と直交してそれぞれ別棟の小屋根をつけ、扉と控柱を覆っている高麗門の形式である。

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