城山球場の北にある山住神社脇に残る土塁
掛川城に籠る今川氏真攻略のために徳川家康が築いた城
読み方
きのさきじょう
所在地
静岡県磐田市見付字城山、磐田城山球場~磐田市立城山中学校
【アクセス】
磐田城山球場~磐田市立城山中学校一帯が城跡で、球場が本丸、中学が二の丸跡です。
磐田城山球場:磐田市見付190
磐田市立城山中学:磐田市見付263−3、電話0538-32-6108
形状
平山城
現状・遺構等
【現状】 宅地、城山中学、磐田城山球場など
【遺構等】 土塁、空堀
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2014/05/15
歴史等
城之崎には、古くは寿永・建久年間(1182~99)に安田義定(遠江守)が居館を設けて新国府としたという。
室町時代中期には今川氏が領して築城し、戦国時代に至り天文10年(1541)、今川義元は見付宿の町人・百姓に年貢を請け負わせて自治を認めている。
永禄12年(1569)に徳川家康によって大修築された時には、それ以前の旧城郭遺構はほとんど残されていなかったと考えられる。
永禄11年(1568)以降、徳川家康はしばしば見付に来ており、旧塁を修築して松平親俊や大久保党を守衛とし、次に松平親俊を宇津山城に発向させ、天野・鈴木氏らに守らせている。
そして、同12年(1569)に城之崎城築城となるが、武田氏に追われて掛川城に籠城する今川氏真攻略が主目的であり、同年5月6日に掛川城は開城となり、この時点で城之崎城の使命は終わった。
家康の次の相手は武田信玄であり、家康は天竜川を背にする不利を察知し、天竜川の西の浜松(曳馬城)に本拠を移した。
『日本城郭大系9より』
現況・登城記・感想等
城之崎城は、磐田原台地の南端の半島状台地の中央に位置します。
国道1号線「権現交差点」から県道258号線を南下すると左手(東側)に高台が見え、その前面が急崖の壁面となっており、城を築くには絶好の場所のように思われます。
高台上のほとんどは宅地化されていますが、日本城郭大系9の縄張図と見比べると、本丸跡がまるまる球場となっています。
球場周囲の大規模な土塁は、往時の遺構のようです。
また、球場の北側の山住神社脇にも櫓台のような土塁がありますが、これも遺構のようです。そして、その土塁上からは眼下に磐田市の全貌が手に取るように分かります。
残念なのは、山住神社手前の壁に「徳川家康公が三方原決戦当時出城とした由緒の地」と書かれているだけで、城址碑も案内板も全くないことです。
尚、球場の東側には土塁以外に空堀跡も残っているようですが、見落としてしまいました(;>_<;)。
(2014/05/15訪れて)
ギャラリー
城之崎城跡全景
国道1号線「権現交差点」から県道258号線を南下すると左手(東側)に高台が見え、その前面が急崖の壁面となっており、城を築くには絶好の場所のように思われます。
城山球場(本丸跡)北西部の土塁①
城山球場の外側(山住神社)の前から撮ったものです。
城山球場(本丸跡)北西部の土塁②
城山球場側から撮ったものですが、高さ10m近くはありそうな大規模な土塁です。掻揚げ土塁でなく、削り取ったような土塁で迫力充分です。
土塁(櫓台?)跡
山住神社脇には、櫓台(物見台)のような土塁が確認できます。
土塁から見下ろす磐田市街の眺望
土塁上からは眼下に磐田市の全貌が手に取るように分かります。
唯一、城跡に関する記述
城跡には、城址碑や説明板などはなく、唯一、山住神社手前の壁に書かれた「徳川家康公が三方原決戦当時出城とした由緒の地」だけが城之崎城跡であることを示しています。