中央公園にたつ石碑と説明板
武田勝頼が戸倉城攻略の為に築いた城、江戸期には水野氏6代の新城が
別名
沼津城
所在地
静岡県沼津市大手町4丁目、中央公園
形状
平城
現状・遺構等
現状:市街地
遺構等:石垣の石、石碑、説明板
満足度
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訪城日
2009/06/27
歴史等
今川氏の没落後、駿河の支配を目指す武田氏は黄瀬川(狩野川支流)を挟んで後北条氏と対立した。
後北条氏の伊豆を侵略するために武田勝頼は、天正5年(1577)頃から狩野川河口に築城工事を開始し、同7年(1579)に竣工させて
「三枚橋城」と名付け、高坂昌宣を城将に任じた。
武田と後北条の両軍は、戸倉城をめぐって一進一退を続けていたが、
天正10年(1582)3月、興国寺城をが徳川家康に攻略されると、
高坂昌宣は三枚橋城を捨て、甲斐に退いた。
この年、武田氏は滅び、三枚橋城は家康の手に落ち、名前も「沼津城」と改め、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原城攻めの後、
家康が関東に移封されるまで松平康親・康重が守備にあたった。
その後、関ヶ原合戦の翌慶長6年(1601)から大久保忠佐が入城したが、同18年(1613)忠佐の死後、
世継がなかったため大久保家は断絶となり、翌19年(1614)廃城となった。
以後160余年の間、当地に城はなかったが、安永6年(1777)、のちに老中となる水野忠友が沼津に城地3万石を与えられ、旧城の本丸・
二の丸一帯(旧城の北半分)に新城を築いた。規模は、三枚橋城と比べ小さなものであった。
以来、沼津は、水野氏6代の城下町となったが、水野氏は慶応4年(1868)、菊間
(千葉県市原市)に転封となり、城の建物は沼津兵学校の施設として使われたが、明治4年(1871)の兵学校廃止後、
払い下げられて姿を消した。
『「現地説明板」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」参照』
現況・登城記・感想等
城址は、すっかり市街に埋もれてしまい、面影は全くない。
中央公園一帯が城跡で、公園内の西側に城址碑と説明板があるが、石碑周囲の石は、発掘された三枚橋城の石垣の石である。
また、公園南にあるアゴラ沼津(静岡銀行)の駐車場入口にも同様の石が一部積み直されている。
(2009/06/27訪れて)
ギャラリー
発掘された三枚橋城の石の石積み(於アゴラ沼津駐車場入口)
アゴラ沼津の地下から発見された三枚橋城の本丸入口付近の石垣の一部を復元?
発掘状況
上写真石垣上に発掘状況の写真が載っていた。