主郭西側の巨大空堀に架かる屈折した長い土橋
近江の六角高成の孫種村高盛が築いた城、土塁・空堀・土橋等が良好に残る
所在地
三重県いなべ市員弁町北金井
【アクセス】
円願寺の西側を通る路地を北進して、すぐ左折し寺の北側を西進し、2本目の路地(寺から約200m)を左折すると、すぐまた突き当たるので、左折して家の前を通るように道なりに駐車場まで。
円願寺:員弁町西方502、電話0594-74-2553
形状
平山城(崖端城)
現状・遺構等
【現状】山林
【遺構等】曲輪、土塁、空堀、土橋、虎口、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2010/12/02
歴史等
金井城(かないじょう)は、永正2年(1505)、近江守護佐々木氏の一族六角高成の孫種村高盛が築いた。
大永2年(1522)に美濃の土岐大膳大夫が北金井へ侵攻してきた際には、北勢諸家の連合軍にて撃退した。
しかし、永禄11年(1568)織田信長侵攻の時には抗戦したが降服し、信長の支配下となった。
元亀3年(1572)高盛の没後、四男弾正左衛門秀政が跡を継ぎ、さらにその長男千代次秀信が継いだ。
天正4年(1576)、)秀信は、滝川一益に心変わりしたとの疑いをもたれて、伊勢長島城へ呼び寄せられ、自害させられた。
その後、一族は城を放棄し離散したと伝えられている。
『「日本城郭大系10」、「現地説明板」より』
現況・登城記・感想等
金井城は想像していたよりも規模が大きく、また土塁、空堀、土橋等々の遺構も大規模で、しかも良好に残っていた。
駐車場から説明板の立つ登城口へ降りて行くと、目の前に、幅約20m、深さ約4mもある大規模な空堀が現われる。空堀には屈折した土橋が架かり、その向こうに虎口がある。虎口両側の土塁も高く、約3mほどある。
日本城郭大系によると「主郭は周囲を土塁で囲まれ、東西約90m、南北約60mあり、主郭内を土塁で大きく2分されている」となっているが、いかんせん冬にも関わらず強烈な藪で、奥の方まではとても入って行けない状態だった。勇気を出して、曲輪北側の土塁上を30~40mほど突入したがあえなく退散(汗)。
それでも、曲輪の入口(西)側部分だけでも、その大規模な土塁、空堀、土橋等々の遺構は見ごたえ充分だった。あと僅かでも整備がされたら、本当に素晴らしい史跡になるんだろうけどネエ。
(2010/12/02訪れて)
ギャラリー
駐車場
駐車場のすぐ横は空堀がある。空堀に沿った畦道を歩いて登城口へ向かう。
主郭西側虎口への土橋
説明板のところへ降りると、目の前に主郭西側虎口へ続く屈折した長い土橋がある。土橋の長さは20m以上あり、手前部分はセメントで補強されている。土橋両側には深くて幅の広い巨大空堀が。尚、TOP写真の土橋は、虎口側から振り返って撮ったものである。
土橋左(北)側の空堀
空堀は、幅約20m、深さ約4mほどある見事なものだ。
虎口から主郭を
土橋を渡り入っていくと、主郭へ出るが強烈な藪!!
北側へ続く土塁と虎口土塁下に設置された石碑
虎口北側土塁裾には城址碑がある。土塁は北側へと続いている。
主郭
藪に覆われた主郭であるが、北側がやや藪が少ないので北側土塁へ登って主郭を見渡すと周囲が土塁で囲まれているのが分かる。
北側の土塁上にて
土塁は高さ約3m、上部幅約3~4mある部厚いものだ。
北側土塁を奥(東)へと進むが
勇気を出して、曲輪北側の土塁上を30~40mほど突入したが、あまりの藪であえなく退散(汗)。
虎口南側の土塁上へ
そこで再度、虎口南側の土塁上へ登り南側土塁の方へ廻ろうと思ったが、こちらはさらにひどい藪・・・(汗)。土塁から空堀底までは約7m。なかなかの迫力だ(^^)。
駐車場から主郭北西部の空堀を
大抵の城跡では、空堀底へ降りて行くのだが、ここの藪はあまりにも強烈でそんな気も起きなかった(苦笑)。