主郭の南側を断ち切る堀切に架けられた丸太橋
相模から来た三浦氏により築かれ、秀吉の攻撃にも耐えた城
別称
霧山城
所在地
三重県松阪市嬉野八田町
【アクセス】
義明寺の南東の山が城址。伊勢自動車道「一志嬉野インター」を下りて突き当たった信号を左折し、県道67号を南下する。中村川を「島田橋」で渡った「島田橋南信号」から450m程南下した2つ目の路地を右折し150m程西進した左手に50m程に登城口(模擬櫓と木橋が見える。TOP写真参照)がある。路地をそのまま100m程進み突き当たった辺りに駐車した。
義明寺:嬉野八田町149
所要時間
登城口から主郭まで約5~6分、今回の総見学時間は30分弱でした。
形状
平山城(標高約58m、比高約34m)
現状・遺構等
【現状】 城址公園
【遺構等】曲輪、土塁、見張り台、空堀、堀切、竪堀、井戸、模擬物見櫓、模擬櫓、復元?木橋、石碑、遺構案内板、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2011/04/21
歴史等
八田城は、鎌倉時代に相模から三浦盛時が来て築城したといわれ、後に大和多と姓を改めたという。正平年間(1346~70)、国司北畠顕能に従い、以後、歴代国司家に属していた。
永禄12年(1569)、織田信長の伊勢侵略の時に、羽柴秀吉がこの城を攻めたが、攻めあぐんだといわれる。
また突然、山手から濃霧が発生して城を覆ったため、地理に詳しい八田城の兵が勝利を得て、秀吉勢は退去するはめになったと伝えられることから別名霧山城ともいう。
天正4年(1576)の国司滅亡後、大和多氏は城を出て下之庄に住み土着し、再び三浦と改めた。
尚、八田城の山麓には、三浦氏の祖三浦大介義明の霊を祭る三浦山義明寺がある
『日本城郭大系10より』
概要
八田城跡は雲出川の支流、中村川の南側の標高約58mの丘陵突端部にある。城跡の北側にある八田集落の平地からは、約34mの高さである。中村川流域の各地区には、下流に天花寺城、堀之内城、小川城(中川)があり、上流に釜生田城、森本城、滝之川城がある。その中でも八田城は、釜生田城、森本城、滝之川城とともに、城跡の全域が残っていて、全体の形状がよくわかる。
城跡は土塁に囲まれた主郭を中心にして、東と北に小郭がある。主郭の出入り口は東と南にあり、南の狭い谷に井戸跡がある。更にその南の尾根筋にも東と西に掘切があり、城の範囲が広がる。
八田城についての同時代の史料は見当たらない。近世の地誌である『勢陽五鈴遺響』には、大多和兵部少輔が居たとし、明治年間作成の地誌をまとめたと思われる『伊勢名勝志』には、大多和氏の前身、三浦氏の築城とする。
(現地説明板より)
現況・登城記・感想等
登城前はあまり期待していなかったが、城址公園として整備がされている上、遺構も完存に近い状態で、充分見応えのある城址だった。
登城口には模擬櫓や木橋が築造され、戦国時代の雰囲気を醸し出している。
城は、比高約34mと、それほど高くはないが結構切り立った山の頂部に主郭を構える。主郭は東西約70m、南北約50mほどで、主郭周囲は、高さ3mほどの土塁がめぐり、その周辺部には低い土塁や堀切などで付属の曲輪が備えられている。
主郭南部の土塁は一段高く、見張り台跡である。
見張り台跡横には虎口があり、その向こうの南側は深い堀切で断ち切られ丸太橋が架けられている。
堀切は、東側下へ廻りこむように空堀・竪堀となり落ちて行っており、その下の方の空堀の脇には井戸跡が残っている。
(2011/04/21登城して)
ギャラリー
登城口
登城口には模擬櫓(写真右)が建てられている。その模擬櫓から左へ続く木橋(写真中央)の下をくぐって表道を登城する。木橋を左の方へ渡って裏道を行くこともできるようだ。
【表道】 (土塁と堀底道)
表道は、堀底道になっている。土塁は1~2mほどの低いものである。
井戸跡
途中、左下の谷間に曲輪跡があり、その前に井戸跡が確認できる。
竪堀(堀切)
井戸の横には、主郭南の堀切から落ちてきている竪堀がある。
主郭手前の曲輪
主郭周辺部には、低い土塁や堀切などで付属の曲輪が備えられている。
主郭
山頂部にある主郭の広さは50m×50mほどあり、周囲を高さ3mほどの土塁がめぐる。
主郭南側の見張り台跡
主郭南側の土塁は一段高くなっているが、見張り台跡である。
見張り台脇の虎口
見張り台の東脇にも虎口があり、その向こうは堀切で断ち切られ、そこに丸太橋が架けられている。
主郭南側の堀切
丸太橋の上から堀切の西方向を撮ったものであるが、なかなか見応えのある。
主郭南側の堀切を渡って振り返って撮影
丸太橋を渡ってから振り返って撮ったもので、左奥の土塁は見張り台跡。