摂津 真田丸(大阪市)

大阪明星学園のテニスコート外側(心眼寺坂)に建立された真田丸顕彰碑

大坂冬の陣の際に幸村が大坂城の東南に築き徳川の大軍に大勝利した出城

名別名

偃月城(えんげつじょう)

所在地

大阪府大阪市天王寺区餌差町
【アクセス】
大阪明星学園周辺が城跡。
大阪明星学園:大阪市天王寺区餌差町5−44、電話06-6761-5606
(真田丸跡周辺地図) 
真田丸周辺地図

形状

出丸(平山城)

現状・遺構等

【現状】市街地(大阪明星学園・心眼寺など)
【遺構等】石碑、説明板、墓、幸村の銅像、抜け穴?ほか

満足度

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訪城日

2019/07/27

歴史等

大坂冬の陣の際に真田幸村が大坂城の東南に築き徳川の大軍に大勝利した出城
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦で西軍に与し敗軍の将となった信州上田城主真田昌幸・幸村(信繁)親子は戦後高野山に流され、しばらくして麓の九度山(和歌山県九度山町)に移った。父昌幸は慶長16年6月4日に九度山で亡くなるが、幸村は、大坂冬の陣が勃発するや否や、慶長19年10月、豊臣秀頼の招きに応じて大坂城に入城した。
幸村はすぐに大坂城の弱点が南側にあるのを見抜き、出丸を構築した。これが「真田丸」で、幸村は慶長19年12月4日、ここ「真田丸」を舞台に前田利常・松平忠直・井伊直孝・藤堂高虎ら徳川方の大軍を手玉にとった。
「真田丸」の場所については、元禄年間(1688年~1704年)に作製された大坂三郷町絵図に「真田出丸跡」として明示されており、それによると現在の大阪明星学園の敷地が「真田丸」の跡地であることが明らかである。今はグラウンドになっているため、かつての面影は全く失われているが、真田幸村はこの場所で徳川方相手に大勝利を得たのである。
『現地説明板(真田丸顕彰碑)より』

現況・登城記・感想等

真田丸については、大坂冬の陣の後、徹底的に破壊され、現在明確な遺構は残っておらず、その正確な形態についても把握できていませんでした。
さらには、その場所についても、伝承をもとにこの辺りにあったのだろうという推測しかありませんでした。
しかし、城郭研究家千田嘉博氏らにより、レーダー探査と航空写真の分析、さらには発掘調査により初めて幻の真田丸の全貌が明らかになり、2016年のNHKの歴史ヒストリア「徹底解明!これが真田丸だ ~地中に残された幻の城~」や「緊急報告“真田丸”を掘る」で放映されました。
それにより、これまで半円形だと伝えられてきた真田丸が、実際は巨大な四角形だったことが分かり、その位置も大阪明星学園を中心にした一帯であったと判明しました。
残念ながら、大阪の土地勘がない私にはテレビを見ていても、千田先生達が歩いているところが、ほとんど分からない状態でしたが、今回、京都の友人Mっさんに付き合ってもらい、雨の中、その周辺を歩いて廻りました。
真田丸があったと推定される場所は明星学園のテニスコートの辺りでしょうか。そして、その外側(道路側)には説明板(真田丸顕彰碑)が建てられています。
また、その説明板と道路(心眼寺坂)を挟んで反対側には、元和8年(1622)4月、白牟(はくむ)上人が幸村・大助父子の冥福を祈るために堂舎を創建したという心眼寺があり、山門脇には「真田幸村出城跡」と刻まれた石碑が立ち、門を入ってすぎ左側には真田幸村400回忌の2014年に建立された幸村の墓があります。
一方、明星学園の西方には、円珠庵(鎌八幡)がありますが、大坂冬の陣の際、幸村が鎌を打ちつけて必勝祈願をし、真田丸で大勝利をおさめたという榎の霊木があります。但し、境内は撮影禁止となっています。
また、明星学園の東方には、かつては真田丸があったとされた宰相山公園にある三光神社があります。神社の北側にある鳥居をくぐって入って行くと、「真田丸」と書かれた幟が立ち並び、社殿前には真田幸村と猿飛佐助の顔ハメ看板があります。
そして、社殿の一段下には、軍配を振りかざす真田幸村像が建てられ、その後ろ側には、大坂の陣のときには真田信繁が大坂城から当地まで掘ったと伝わる「抜け穴」があります。
そして、社殿の一段下には、軍配を振りかざす真田幸村像が建てられ、その後ろ側には、大坂の陣のときには真田信繁が大坂城から当地まで掘ったと伝わる「抜け穴」があります。

*真田丸について詳しいことは、「玉造を応援する情報サイト」、その中でも「千田嘉博さんインタビュー’真田丸最新研究(壱)」参照がお勧めです。

ギャラリー

【真田丸顕彰碑と心眼寺坂】
真田丸については、大坂冬の陣の後、徹底的に破壊され、現在明確な遺構は残っておらず、その正確な形態は勿論、その場所についても把握できていませんでした。
しかし、城郭研究家千田嘉博氏らにより、レーダー探査と航空写真の分析、さらには発掘調査により初めて真田丸の全貌が明らかになり、これまで半円形だと伝えられてきた真田丸が、実際は巨大な四角形だったことが分かり、その位置も大阪明星学園を中心にした一帯であったと判明しました。
そして、真田丸があったと推定される明星学園のテニスコートの外側(道路側)には真田丸顕彰碑が建てられ2016年2月1日に除幕式が行われました。
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【心眼寺】
顕彰碑と道路(心眼寺坂)を挟んで反対側には心眼寺があります。
心眼寺は安土桃山時代後期、豊臣秀吉のときの文禄年中に創建されましたが、冬の陣のあと取り壊されました。
しかし、元和8年(1622)4月、白牟(はくむ)上人が幸村(信繁)・大助父子の冥福を祈るために堂舎を創建しました。寺の定紋は真田家の六文銭と定められ、山号は真田山です。ここは真田丸の一部(東北側の曲輪跡)といわれているようです。
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心眼寺山門脇の石碑
石碑には「真田幸村出丸城跡」と刻まれ、その右上には六文銭が・・・。
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真田幸村(信繁)の墓
心眼寺山門を入ってすぐ左側には幸村の墓があり「従五位下 真田左衛門佐豊臣信繁之墓」と刻まれています。お墓の両側には六文銭の幟が立ち、左横には六文銭付きの説明板が設置されています。
慶長19年(1614)の大阪冬の陣の際に、幸村は真田山に出城「真田丸」をつくり、ここで徳川の大軍を相手に勝利をおさめました。しかし、翌年の大坂夏の陣で幸村は討ち死にしました。そして豊臣家は滅亡しました。
その後、大坂は江戸幕府の直轄地であったため、豊臣方の武将であった幸村の墓をつくることは許されなかったことでしょう。
そのため、幸村のお墓は建てられないままでしたが、真田丸の戦いがあった「大坂冬の陣」から400年目にあたる2014年の幸村四百回忌に住職の長年の願いが叶い墓碑が建立されました。
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幸村の墓の横に設置された説明板
墓の横に設置された説明板には真田幸村(信繁)について解説が記されています。
真田幸村説明板

【円珠庵(鎌八幡)】
明星学園の西方には、円珠庵(鎌八幡)があり、大坂冬の陣の際、幸村が鎌を打ちつけて必勝祈願をし、真田丸で大勝利をおさめたという榎の霊木があります。
但し、円珠庵(鎌八幡)の境内の大部分は、第二次大戦で損壊し、霊木も消失してしまいました。ところが根は残っており、新芽が出て蘇生し、現在に至っているのだそうです。
但し、境内は撮影禁止となっています。

鎌八幡

円珠庵

【三光神社】
明星学園の東方には、かつては真田丸があったとされた宰相山公園にある三光神社があります。神社の北側にある鳥居をくぐって入って行くと、「真田丸」と書かれた幟が立ち並び、社殿前には真田幸村と猿飛佐助の顔ハメ看板があります。
(三光神社へ向かう)
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(参道脇に立てられた真田丸と六文銭の幟)
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(社殿)
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(真田幸村と猿飛佐助の顔ハメ看板)
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そして、社殿の一段下には、軍配を振りかざす真田幸村像が建てられ、その後ろ側には、大坂の陣のときには真田信繁が大坂城から当地まで掘ったと伝わる「抜け穴」があります。
(真田幸村像と抜け穴)
IMG_2750

(抜け穴)
抜け穴は、普段は安全のために柵がされ立ち入り出来ませんが、毎年11月第1日曜日の「真田まつり」の日だけは解放されるようです。
IMG_2752

(抜け穴を覗く)
とはいえ、柵の隙間から抜け穴の中を覗いたら、数メートル先で埋まってました。
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