復元東虎口櫓(大手門)と南北の櫓
天下稀代の策士・真田昌幸の築城、徳川軍を二度にわたり蹴散らした堅城
別名
尼ケ淵城
所在地
長野県上田市二の丸
形状
平城(崖端城)
現状・遺構等
【現状】 上田城跡公園(本丸・二の丸)、市街地
【遺構等】 曲輪、土塁、堀(水堀・空堀)、石垣、北・南・西の櫓三基、復興渡櫓門、真田井戸、復興東虎口櫓門他
【国指定史跡】
指定日:昭和9年12月28日
指定理由:初期の平城の典型とされ、堀や石積・土塁などが残り、往時の姿をとどめている
面積:11万1,568㎡
資料館:二の丸内に上田市立博物館がある
満足度
★★★★☆
訪城日
1996/05/02
2004/05/01
2006/04/15
2016/05/31
2017/12/11
歴史等
在地土豪・小泉氏の古い城館があったといわれる場所に真田昌幸が築城した。
天正10年(1582)3月に武田氏が滅亡したのちの昌幸の動きは目まぐるしい。4月に織田信長に馬を贈って臣従の意を示し、6月に本能寺の変で織田信長が死去し、7月に北条氏直が小県に進出すると氏直に臣従した。9月には徳川家康に属していた弟・加津野信尹の勧めもあって家康に属した。
天正11年(1583)に上田城を築いた昌幸は、北は川中島を占領して小県に迫ろうとする上杉景勝に対抗し、東では上野で北条氏政と対抗していた。
その後、徳川家康と北条氏政の和議が成立し、天正13年(1585)甲斐・佐久・諏訪は徳川領、上州は北条領との分割が実施されることになり、昌幸に対し家康は上州沼田領の北条氏への明け渡しを命じたが、昌幸は拒否し、上杉景勝に次男・弁丸(幸村)を人質として送って援助を求め、家康に攻められそうになると、豊臣秀吉にも誼を通じた。この時、幸村を取り返して秀吉に出仕させたという。
家康は昌幸の反逆を憎み、同年8月、鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉ら譜代の家臣と信濃・甲斐の国人衆を加え7千を動員し上田城に迫った。
昌幸は自らは上田城に籠り、長子・信幸を戸石城に、丸子城・矢沢城にも兵を配置した。
閏8月2日、徳川勢は城下三方の口から城壁の下まで攻め寄せたが、狭い所で大勢がひしめいているところを、城中から鉄砲で撃たれ、混乱して退却した。しかし、通路に柵があったり、伏兵に苦しめられたりして、国分寺東側の神川(かんがわ)に追いつめられ、死傷者が続出した。徳川勢は、転じて支城丸子城(小県郡丸子町)を攻めたが、これ抜くことができなかった。そのうち、徳川家家臣筆頭の石川数正が岡崎城を出奔して秀吉の許に走るという事件がおこり、家康は急いで出兵中の兵士を呼び返した(第一次上田城合戦)。
次に、関ヶ原の戦時、真田家は、昌幸・信繁は石田三成勢(西軍)、信幸は徳川家康勢(東軍)に加わった。東軍は徳川秀忠率いる徳川本隊3万8千に中山道を西上させた。迎え撃つ真田勢は2千5百で、昌幸は上田城に籠城した。徳川秀忠は信幸と本多忠政を遣わせて昌幸に対し降伏を勧告した。降参すると見せかけて時を稼ぐ昌幸にたぶらかされて数日を空費した。そして9月6日、上田城を包囲した徳川軍は、またしても昌幸の策にひっかかった。城中から小部隊が出撃して来たので、それにつられ、部将の制止も聞かず、大軍が城壁の下まで押し寄せ、城内からの射撃に手ひどい攻撃を受け、また城中から出撃してきた兵にかきまわされて大損害を受けた。また、昌幸は虚空蔵山(戸石城の南方)や丸子城などにも兵力を配置して遊撃軍とし、徳川勢を翻弄した。そして、虚空蔵山下を流れる神川の流れを堰き止めてから放水したので、行軍中の徳川勢は、大混乱に陥ったという。(第二次上田城合戦)。
秀忠は上田城攻略を諦め抑えの将兵だけを残して中山道を西上したが、9月15日の関ヶ原合戦に遅参する憂き目に遭った。関ヶ原合戦後、昌幸父子は九度山に配流となり、上田城は徹底的に破却された。
その後、上田城は真田信之(信幸)に与えられるが、元和8年(1622)松代城に転封、 小諸城から仙石忠政が入城した。宝永3年(1706)、仙石氏が但馬出石城に転封となり、松平氏が入城、明治の廃藩置県まで存続した。
『参考資料:「別冊歴史読本・真田幸村(新人物往来社刊)』
現況・登城記・感想等
上田の町には、そこかしこに6文銭の旗がなびいている。昌幸時代と信之時代を合わせても、真田の時代は確か40年くらいのものであったと思う。上田市民が如何に真田氏を誇りに思っているかがよく分かる。
上田城と云えば、真田の名を一躍全国に知らしめた徳川との2度の合戦の地であり、秀吉から「表裏比興」と称された謀将・真田昌幸の本領発揮の場所である。
しかしながら、徳川の怨みのこもった真田昌幸の上田城は関ヶ原の戦後、徹底的に破却され、現在残る上田城の遺構の大部分は近世大名、仙石氏によって築かれたものであるとのこと。そうは云いながら、やはり上田城と云えば真田である。真田神社があり、真田井戸・真田石がある。全国の城内によくある抜け井戸伝説も真田のものとなると事実かもしれないと思いたくなる。
今では上田城の周辺はすっかり市街地化しているが、本丸の南側(尼ヶ淵側)は断崖に面しており、要害の地であったろうことはよく伺える。
現在の城は仙石氏による城とは云いながら、堀も土塁も石垣もよく残っており、なかなか立派なものである。また、現存櫓も残っており、復興とは云いながら大手門(正式には東虎口櫓門)も立派である。
(1996/05/02、2004/05/01登城して)
バスツアーを利用して、お花見に行った。まだちょっと早かったが、東虎口櫓門のところの枝垂桜はほぼ満開で、素晴らしかった。尤も、人も満開で大変だった。
(2006/04/15登城して)
NHK大河ドラマ「真田丸」のせいか、以前よりも観光客が随分増えたようです。
(2016/05/31登城して)
高峰高原温泉へ寄ったついでに、小諸城と上田城へ登城しました。
蕎麦屋さん「くろつぼ」から、上田城跡公園へ城下町の風情のある路を歩いて行くと「小泉曲輪跡」へ出ました。小泉曲輪まで来たのは初めてです。説明板によると、小泉曲輪は「捨曲輪」の趣を呈していたとありますが、上田城は、元々、在地土豪・小泉氏の古い城館があったといわれる場所に真田昌幸が築城したということなので、ひょっとしたら上田城の最も古くから存在する曲輪なのでは?などと思いながら、本丸へと向かいました。
上田城は、今回で5度目の登城なので、簡単に廻るだけです。
本丸内に鎮座する真田神社には、六文銭付きのデッカイ兜が飾られ、既に初詣の幟がたてられていました。
そして、久し振りに東虎口櫓門の「真田石」の写真を・・・。
(2017/12/11登城して)
ギャラリー
東虎口櫓門と南櫓(左)・北櫓(右) ~クリックにて拡大画面に~
北櫓は民間に払い下げられていたものを市が買い上げて上田城に戻したもの。大手門は近年の復元。
東虎口櫓門の巨石「真田石」
信之が松代城移封にあたり持って行こうとしたところ、ビクともしなかったという
本丸(東虎口櫓門から撮影)
真田神社
真田井戸
抜け穴伝説があり、ここから太郎山麓や藩主居館跡に通じていたという。真田ならあっても不思議ではないと思ってしまう?
西虎口櫓門跡
こちらは、東虎口門は立派に復興門が建っていますが、裏側に当たるせいか、こちらは復元されていませんが、現存西櫓(写真右)がしっかり残っています。
隅櫓跡
西櫓と西虎口門跡を挟んで反対側です。
西櫓脇から尼が淵を望む
西櫓
小泉曲輪跡
尼が渕から西櫓を見上げる
尼が渕から南櫓を見上げる
尼が淵から西櫓(左奥)・南櫓(手前)を
二の丸堀(二の丸橋上から見下ろす)
二の丸を鍵の手に囲んでいた二の丸堀の総延長1,163mありましたが、昭和3年5月上田温電北東線が開通し、堀跡を電車が通っていた。しかし、昭和47年2月に電車が廃止され現在に至っている。
堀底に下りて撮ったものですが、NHK大河ドラマ「真田丸」の幟が並んでいます。(2016/05/31)
二の丸
北虎口
観光客がほとんど訪れない北虎口ですが、立派な枡形石垣が残っています。
百閒堀跡
百閒堀の跡は、今では野球や陸上競技などのグランドになっており、随分広い堀であったのを実感します。
明倫堂(藩校)跡
二の丸堀の東にあった上田藩の文武学校「明倫堂」の跡には上田第二中学が建っていますが、あまりにも立派な建物なので博物館かなにかと思いました。
上田藩主居館表門(薬医門)
寛政2年(1790)に再建されたもの。関ヶ原の戦で上田城が破却されたあと、真田信之はここに藩主居館を建て藩政を行った。現在、跡地には上田高校が建ち、藩主屋敷門門と堀跡が残っている。
上田藩主居館跡(現上田高校)の堀
六文銭(六連銭)
上田の町は真田一色で、幟は勿論、バイクのナンバープレートにまで六文銭(六連銭)がw(*゚o゚*)w。