本城本郭の虎口脇の石垣
信玄一世一代の負け戦「砥石崩れ」で有名、2度の上田城合戦でも重要な存在
別名
戸石城
所在地
長野県上田市上野字伊勢山
【アクセス】
登城口は幾つもあり、自然散策トレッキングコースが整備されていますが、陽泰寺に駐車して登るのが一般的で、分かりやすいと思います。
国道144号「伊勢山」信号を北西へ入り、すぐを右折します(砥石城の案内有り)。250m程進むと変則的な十字路に出るので、そこを右折します。そこから500m程北上すると左手に「陽泰寺」があり、ここに駐車場があります。城跡へはここから更にこの道を300m程北上すると左手に登山口の案内があるので、ここから山に入ると道が整備されています。
形状
山城(標高:791m)
現状・遺構等
【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、堀切、竪堀、土塁、石垣、虎口、碑、説明板、遺構案内板他
満足度
★★★☆☆
訪城日
2004/04/28
2016/05/30
歴史等
砥石城の築城の時期については諸説あり、明らかではないが、葛尾城に本拠を置いた村上氏、あるいは真田本城に本拠を置いた真田氏(海野氏)などが上田・小県・佐久地方の軍事上の要として築いたものと考えられている。いずれにしても天文年間(1532~1554)には葛尾城の村上氏の属城であった。
天文17年(1548)2月の武田氏と村上氏による上田原の合戦で武田勢は大敗を喫し、板垣信方や甘利虎泰らの有力武将を失った。
天文19年(1550)9月、武田信玄は、態勢を整え、小県への侵攻を始め村上勢の拠る砥石城を攻めた。攻防は1ヶ月に及んだが、攻略を諦めた武田勢はついに撤退を開始したが、撤退の途中で村上勢に追撃され、全軍総崩れとなる。この敗戦が有名な「砥石崩れ」と称される信玄一世一代の負け戦である。 この戦いによって、難攻不落の竪城としての砥石城の名は近隣に轟いた。
しかし翌年20年(1551)5月に真田幸隆の諜略によって、あっけなく落とされ信玄のものとなった。
その後、天正10年(1582)3月に武田氏が滅亡した。
真田昌幸は戦国大名として自立し、天正11年(1583)に上田城を築城開始し本拠を移すが、砥石城は上田城の詰の城として引き続き重要視された。
天正13年(1585)、沼田領の絡みで、徳川の大軍を迎え撃つことになったが、砥石城には信幸が入り、また、慶長5年(1600)の関ヶ原の役の際には幸村が砥石城の守備にあたり、攻撃側に甚大な損害を与えている(上田城参照)。尤も、関ヶ原合戦の際は砥石城攻撃が兄・信之であったため幸村は無血開城している。
役の後、真田昌幸の旧領は信幸(信之に改名)に与えられ、砥石城も支城として存続していたものと思われるが、元和8年(1622)信之の松代城転封に際して廃城となった。
また米山城には、篭城時に白米を馬の背に流して水が余るほどあることを見せかけたという白米城伝説も残されている。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「現地説明板」他参照』
現況・登城記・感想等
砥石城は、上田盆地の北に位置する太郎山山系の東端に位置し、南に突き出した尾根上に連郭式に築かれた枡形城・本城・砥石城からなり、砥石城と本城の間には馬場が設けられています。また、鞍部を隔てて南西の峰に築かれた「米山城」も含めた複合城郭群を総称して砥石城とする場合もあります。
砥石城といえば、何と言っても武田信玄大敗の「砥石崩れ」で有名な城ですが、真田幸隆の調略による城落としの本領発揮の城でもあり、その後も真田家とは密接な関係のある城であり、真田ファンならずとも是非押さえておきたい城跡です。
しかし、遺構という観点からは、石垣や堀切、切岸等の遺構を確認できますが、それほど見応えのあるものはありません。
また、城の東西側面と北端は急崖であり、南側の登城道もかなりきつく、要害堅固な城であることは間違いありませんが、「砥石崩れ」を想像するほどの城とは思えませんでした。
尚、枡形城と砥石城跡からの眺望は良く、北端に位置する枡形城からは松尾古城をはじめ烏帽子岳西麓の真田地域を、また、砥石城跡からは天気に恵まれると遠く富士山まで望むことができるようです。
(2004/04/28、2016/05/30登城して)
ギャラリー
砥石城縄張略図(現地説明板より)
砥石城は南から北へ延びる尾根上に、連郭式に築かれた砥石城・本城・枡形城からなり、砥石城と本城の間には馬場が設けられています。
砥石城跡全景
当写真は真田本城の二ノ郭から眺めたもので、南へ突き出した尾根上に北側から連郭式に枡形城・本城・砥石城が設けられているのが分かります。
砥石城と米山城の配置図
また、鞍部を隔てた「米山城」も含めた複合城郭群を総称して砥石城とする場合もあります。
砥石城
登城口から尾根道を行くと、右前方に砥石城址、左前方に米山城址が見えてきます。
米山城と戸石城の分岐点(尾根の鞍部)
尾根道をしばらく進むと米山城と砥石城への分岐点へ出ます。ここは砥石城・米山城間の鞍部に当たります。案内板には砥石城15分、米山城10分となっていますが、実際にはその6掛けから7掛けほどで到着します。
砥石城への急坂(階段)
砥石城への登城道は急坂(尾根筋)を一直線に登るようになっていますが、よく整備されたジグザグの階段が設けられています。山頂部の砥石城へは、10分ほど、この階段をひたすら登ることになります(汗)。
石段
急な階段を6~7分ほどひたすら登ってくると、岩をくりぬいたこのようなしっかりした石段へ出ます。これも往時のものなのでしょうか?
さらに階段を・・・
石段を登ると、さらにきつい階段が続きますが、砥石城頂部までは、残り3分ほどです。
砥石城山頂
城というよりも上田平に眺望の利く物見台といった感じです。
砥石城から上田市街を
砥石城山頂からの眺望はよく、上田市街が一望のもとに開け、上田城なども見えます。
関東の富士見百景
砥石城山頂からは天気に恵まれると遠く富士山まで望むことができるようで、関東の富士見百景に選ばれているそうです。残念ながら登城した二度とも見えませんでした(/。ヽ)。また、当案内の六角形の標柱石は、太郎山に産する六方石で、通称「天狗石」と呼ばれているそうです。
砥石城背後の切岸
次に、本城・枡形城方面へと向かいます。当写真は振り返って砥石城の切岸を撮ったものですが、この高い切岸はかなりの防衛能力を発揮するのでしょう。尚、手前には土塁と堀切が設けられています。
馬場跡
戸石城・本城間の尾根は広く緩やかで、往時は馬場であったとされています。
大手口
馬場跡を本城へ向かって進むと大手口へ出ます。砥石城へは周囲の畑山・伊勢山・金剛寺の三方向から登れますが、この伊勢山からの道が大手口と考えられており、写真右下へ降りて行くと、山腹には湧水があり砥石城の水の手と伝えられています。又、段曲輪が数多く配置されています。尚、写真背後の段曲輪は本城です。
本城
砥石城の中心となる本城は、砥石城のなかでも広い郭を持ち、帯状の段郭が最上段の本郭を取囲むように配置されています。山城としては、かなり広い郭群であり、館もあったのではと推定されています 。
本城本郭の切岸と虎口
本城の段郭を北へ向かってに進むと、本郭の切岸が見えてきます。本郭への虎口には石垣が一部残っています。
本郭の虎口脇の石垣
本城本郭
本郭は、本城の最上段にある広い郭で長軸40mほどあり、充分、居住できるスペースがあります。
本郭背後の堀切
結構大規模な堀切です。
本郭背後の堀切は、堀底から本郭上まで高さ4m近くあります。
矢竹
本城本郭から枡形城へ続く尾根の脇には、多くの城でも見られるように矢竹が生えています。
枡形城へ
さらに尾根道を北へ向かうと枡形城へ出ます。枡形城は、砥石城と同じように物見台のような高台になっています。手前には、堀切跡と思われる地形が確認できます。
枡形城
戸石城の北端の要害(砦)で、入口が折れ曲がっており、枡形状になっているところからこの名がおこったものと思われます。また、ここが戸石城の最高地点であることから、ここが「本城」とされていた時期もあったといいます。
笹郭(捨郭)
枡形城の先には、笹曲輪(捨曲輪)のような狭い郭があり、その間を堀切で断ち切っています。
笹郭(捨郭)から枡形城を
笹郭(捨郭)から振り返って枡形城を見たものです。枡形城が、一段高く、その間を堀切で断ち切っているのがよく分かると思います。
笹郭からの真田町の景色
真田本城や松尾古城も見えます。