播磨 長水城(宍粟市)

主郭南東部の高石垣

播磨の名族宇野氏の本城、秀吉の播磨平定の際に落城

読み方

ちょうずいじょう

所在地

兵庫県宍粟市山崎町宇野
【アクセス】
登城口は宇野から登る大手道と五十波(いかば)方面からの搦手の2か所ある。大手道は伊水小学校横から登るが、こちらは比高約450mあり、約1時間掛かるようだ。搦手の登城口へは、中国自動車道「山崎IC」を下り、国道29号を4km程北上し、梯川を越えるとすぐ左手に長水城への案内がある。そこを左折し500mほど西進する、また左手に案内板があるので左折し、道なりに登って行くと突き当たりが登城口で、駐車スペースがある。
伊水小学校:宍粟市山崎町宇野419-1、電話0790-65-0006

所要時間

五十波方面の搦手口から主郭まで約35分~40分

形状

山城(標高584m、比高450m)

現状・遺構等

【現状】 信徳寺、山林
【遺構等】 曲輪、石垣、土塁、堀切、井戸、石碑

満足度

★★★★

訪城日

2011/11/12

歴史等

長水城は文和年間(1352~56)に播磨守護職の赤松則佑が長水山の山頂に城を築き、これを広瀬師頼に守らせたのが始まりと伝えられている。
その後、赤松家の守護代として播磨西8郡の支配者となった宇野氏が、この要害堅固な城を一族の本城とし、整備していった。宇野氏は、その最盛期には揖保郡・宍粟郡・美方郡のうち10万石余を領有した。
天正5年(1577)織田信長の命で、毛利攻めに羽柴秀吉が播磨に入ると、宇野氏など播磨諸将は織田氏に従い、年末には上月城が落ちた。
翌6年4月18日、織田方として上月城の守備に入っていた尼子勝久・山中鹿之助が毛利氏の大軍に囲まれると、5月に秀吉は救援しようとしたが叶わず、信長の命を受けて6月24日に上月城を見捨てた。これを見て、7月5日、宇野氏は上月に出陣して毛利氏に加勢する立場を示した。
ところが、翌7年、宇喜多直家が秀吉につくと播磨は一気に織田氏有利となり、天正8年正月に三木城が落城した後の閏3月、宇野氏は小早川隆景に援助を求めたが播磨衆はあてに出来ないと見捨てられた。
4月24日、秀吉は宍粟郡に入ると宇野氏の支城、五十波構(いかばこう)、清野構(せいのこう)、さらに篠ノ丸城を攻め落とすと長水城へ攻め登った。長水城は落ち、宇野氏は滅びた。
『「日本城郭体系12」、「ひょうごの城(神戸新聞総合出版センター刊)」より』

縄張

長水城の縄張りは、長水山山頂に主郭を置き、主郭から南・北東・北に張り出す尾根上に曲輪を配置している。
南に張り出す尾根上には、二の曲輪、さらにその先端に三の曲輪を配置し、北東の尾根上には塁段になった曲輪が配置されている。
北の尾根にも塁段になった曲輪と先端部に姫の曲輪と称される曲輪があるらしいが、こちらは全く整備されておらず、降りていくのは難しいようだ。

現況・登城記・感想等

五十波方面からの搦手登城口から、かなりの急坂道を30~35分ほど、ひたすら登ると正面頭上にいきなり石垣が現れる。
この石垣、そこから山頂の主郭下まで70mほどの登り石垣になって伸びている。これほど高い山の上にこれほどの石垣が存在していることにビックリ!
さらに驚くことに、その石垣の上には家が建ち、日常生活がされているようだった。多分、信徳寺の住職とその家族の方たちなのだろう。
主郭には信徳寺本堂が建っている。寺は城と共に滅んだ家臣達の菩提を弔うために建てられたという。主郭の南と東の高石垣は5mほどある立派なものだ。
主郭南下には、細長い二の曲輪があり、その南に鞍部(堀切?)を挟んで独立した出丸がある。出丸からは360度のパノラマが楽しめる。
(2011/11/12登城して)

ギャラリー

大手口(現伊水小学校脇)から長水城の遠望を
長水城南麓には伊水小学校があるが、ここは宇野氏の館跡と考えられている。その脇から長水城址へ登る道があり、こちらが大手道であるが、こちらは比高約450mあり、約1時間掛かるとのことなので、今回は五十波方面からの搦手登城口から登城することにした。
遠景

五十波方面からの搦手登城口
今回は、五十波(いかば)方面からの搦手道を登ることにした。今回は、長崎在住時代の同僚、N澤さん、K沢さんと一緒だ。
搦手登城口

登城道
登城道は、ハイキングコースとしてよく整備されている。
登城道

井戸①
登り始めて22~23分ほどで、左へ曲がる小道があったので入って行くと、岩をくり抜いた井戸跡らしきものがあった。雨水をためる井戸だったのだろう。
井戸1

井戸②
元の道へ戻り、5分ほど登って行くと、今度は道端にまた井戸跡が・・・。城に井戸は不可欠だ。 
井戸2

石垣が現れる
さらに3分ほど登って行くと、いきなり頭上に立派な石垣が現れる。高さ約3mほどある。「こんな山の上に、これほど立派な石垣が」と感動(*^_^*)。
石垣1

登り石垣
この石垣、登り石垣のように山頂部へ70m近く伸びていて、さらに感動(*^_^*)。
登り石垣

石垣の上には家がw(*゚o゚*)w
さらに驚くことに、石垣に沿って登って行くと、その石垣の上には家が建ち、日常生活がされているようだった。多分、信徳寺の住職とその家族の方たちなのだろう・・・・w(*゚o゚*)w。
石垣の上に家が

主郭東側の高石垣
さらに石垣に沿って登って行くと、右手上に高石垣が現れる。主郭東側の高石垣である。石垣は3段になっているが、一番上の高石垣は、高さ約5mほどもある。
主郭東側の高石垣

手水鉢?
高石垣の下には、岩をくり抜いた手水鉢が・・・。
手水鉢

主郭へ
主郭へは石段があるが、その上に鉄製の階段が設けられている。歩きやすくはなってはいるが、折角の風情が台無しかも・・・?右上には、主郭南東部の立派な高石垣が見えます。
主郭へ2

主郭南東部の高石垣
主郭南東部の高石垣

主郭
主郭には信徳寺本堂が建っている。寺は城と共に滅んだ家臣達の菩提を弔うために建てられたのだという。
主郭

供養塔
寺の裏には長水城主宇野下総守と主従一族の供養塔が立っている。
供養塔1
 供養塔2

二の曲輪
主郭南下、階段を降りたところに細長い二の曲輪がある。
二の郭

出丸
二の曲輪を南の方へ進むと、鞍部(堀切?)があり、土橋様の道の向こうに出丸が見える。
出丸と堀切

出丸下から主郭方面を
出丸へ向かう途中に振り返って撮ったものですが、主郭はかなり高い場所にあるのが分かります。
鞍部から主郭を

出丸からの眺望
出丸からの眺望は素晴らしく、360度のパノラマが楽しめる。出丸は、芝生が刈り込まれ、弁当を食べるのに絶好だ。勿論、私も、今回付き合ってくれたN澤さん、K沢さんと一緒におにぎりを・・・。否、N澤さんは焼きそばだったかな?
IMG_6592

IMG_6593

出丸の南側下の堀切
主郭下へ戻り、二の曲輪下に沿って南の方へ大手道を降りて行くと、堀切が・・・。どうやら、写真左の道を行くと三の曲輪、堀底道を降りて行くと大手口である宇野氏館(現伊水小学校)へ行けるようだったが、ここで戻ることにした。
堀切

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