摂津 滝山城(神戸市)

本丸西隅の櫓台上に建てられた「瀧山城趾」の碑

南北朝期に足利尊氏に与した赤松氏の城、戦国期に松永久秀により大修築

別名

布引の城 (また、多芸山城、多喜山城とも書く)

所在地

兵庫県神戸市中央区城山
【アクセス】
新神戸駅の下を潜って駅の北側の布引ハイキング道に入り、50mほど進むと左手上に「滝山城址」の石柱があり、そこから登山道で城跡に向かう。車は新神戸駅の有料駐車場に停めると良いでしょう。

所要時間

登城口(新神戸駅のすぐ北側)から本丸まで約45分

形状

山城(標高316.5m、比高約250m) 三の丸が最高所にあり標高318.9m

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、石垣、空堀(竪堀、堀切)、虎口、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2012/01/07

歴史等

滝山城の築城年代は不明であるが、一般的には元弘3年(正慶2年・1333)とされる。
元弘3年1月11日、大塔宮護良親王の令旨を受けた赤松円心則村が播磨苔縄城で挙兵して摩耶山城まで進出し、河内千早城に立て籠もる楠木正成を支援しながら京都を窺い、同年閏2月11日には鎌倉幕府軍と「摩耶合戦」で勝利して一度は京都七条まで攻め上ったが、撃退されて退き、ここ滝山城に籠って再起を図った。
同年、鎌倉幕府は滅亡して建武の新政が始まり、則村には播磨守護職が与えられ、滝山城と多々部城(神戸市中央区再度山)に長子範資とその子光範を配した。
しかし、ほどなく新田義貞が播磨大介となり則村は播磨守護職を解任され、西摂も楠木正成が領することになった。大いに不満を持った則村は、足利尊氏が後醍醐天皇に背くと同調した。
建武3年(延元元年・1336)、新田義貞が足利尊氏の追討使として山陽方面に向かうとき、赤松範資らは滝山城を放棄して播磨に退き、白旗城の則村と合流した。
その後、建武の新政の崩壊によって、則村が四職の一人に任ぜられるとともに播磨守護となり、範資が摂津守護に任ぜられ、再び滝山城には範資・光範父子が入城した。
尚、永徳元年(弘和元年・1381)に光範が没してからの滝山城がどうなったかは不明である。
戦国時代に入り、三好長慶が摂津に侵攻すると、西摂の軍事拠点として、家臣松永久秀に命じて荒廃していた滝山城を修築させた。
永禄7年(1564)、三好長慶が没すると、三好3人衆(三好長逸・三好政康・石成友通)と松永久秀が争うことになった。紆余曲折の末、三好方部将の篠原長房が城主となるが、永禄11年(1568)織田信長に攻められ落城した。
そして天正元年(1573)、荒木村重が摂津守となってこの地を領して伊丹に本城(伊丹有岡城)を構えた。その支城の花隈城は荒木志摩守が守り、滝山城は花隈城の支城として家臣池田泰長が守った。
天正6年(1578)、荒木村重が織田信長に謀叛を起こすと、志摩守は花隈城に、泰長は滝山城に籠城したが、同7年、信長によって花隈城・滝山城共々攻められ落城し、城も廃城となった。
尚、同9年に池田恒興が兵庫城を築城した際に、滝山城の石材も転用したと伝えられている。
『ひょうごの城(神戸新聞総合出版センター刊)他より』

現況・登城記・感想等

兵庫県には、当然のことながら赤松氏が築城した城址が多い。そして、それらの多くが魅力がある素晴らしい城址で、赤松氏の城址を廻る時はウキウキした気分になる。尤も、そのほとんどが、戦国時代に修理改築されたものではあるが・・・。
滝山城も、そんな城の一つで、しかも戦国時代の梟雄松永久秀が大修築した城である。当然、興味津々での登城だった。
滝山城の縄張りは、東曲輪群・中央曲輪群・西曲輪群の3つから構成され、これらの曲輪群は大規模な堀切で区画されている。
中央曲輪群の最高所に本丸を構え、その西隅には櫓台を備えており、そこに高さ3mほどもある「史蹟瀧山城阯」の石碑が建てられている。
東曲輪群から中央曲輪群にかけては、数ヶ所に竪堀が設けられ、所々に石垣が散見される。
一方、西曲輪群には堀切が1ヶ所あるだけで、これといった遺構は認められない。
東曲輪群側が、地形も険しく、防御がしっかりしているのに対し、西曲輪群側の防御は比較的甘いように感じる。これは、やはり対京都を見据えて築いた結果であろうか?
尚、六甲山脈にある城址なので、神戸市街を見下ろす光景も期待していたが、所々から僅かに望めるだけで、全体的に眺望はよくない。
それでも、大都会神戸にこれほどの城址・ハイキングコースがあるのは羨ましいような・・・。
(2012/01/07登城して)

ギャラリー

縄張略図(現地説明板より)
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【登城記】
登城口
滝山城址は、ハイキングコースとして何本もの道が整備されているが、私は山陽新幹線「新神戸駅」の北側から登り(大手道)、北野方面へ下りた。
山陽新幹線「新神戸駅」の下を潜って駅の北側の布引ハイキング道に入り、50mほど進むと左手上に「滝山城址」の石柱があり、そこから登山道で城跡に向かう。
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登城道
道は、北西方向へ向かって進むが、多くが堀底道になり、傾斜も結構きついが、この道が大手道らしい。 
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曲輪群
尾根の中腹部には幾段にも削平された曲輪群がある。
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石垣
また、所々に石垣も残っている。
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分岐点
登城口から登り始めて30分ほどで、猿掛け橋・布引の滝方面のへの分岐点へ出る。ここから尾根は、ほぼ西方向へ向かう。

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Ⅱ曲輪下の道
分岐点からは、東曲輪群の北側裾を迂回する道になる。写真左上に東曲輪群があるらしい。
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竪堀
分岐点から中央曲輪群までの間には竪堀が数ヶ所散見される。
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石垣
また、石垣跡も散見される。
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堀切道へ
分岐点から山裾道を5分ほど進むと、当城で最も防御の固い堀切道が見えてくる。その手前にも竪堀が設けられている。
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竪堀
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堀切道
この辺りは、両側上に曲輪を構えており、防御は万全のようだ。
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中央曲輪群と東曲輪群を断ち切る堀切
堀底道をしばらく進むと中央曲輪群と東曲輪群を断ち切る堀切へ出、縄張図付きの説明板が立っている。
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中央曲輪群
堀切から本丸に向かう中央曲輪群が滝山城の中核部で、曲輪一つ一つが比較的広く、周囲には土塁が廻らされている。
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土塁
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本丸へ向かう
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本丸
本丸は、城内でも最も広い曲輪で、東屋が建てられている。
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櫓台
本丸の西隅には櫓台を備えている。
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櫓台の上
櫓台の上には、高さ3mほどもある「史蹟瀧山城阯」の石碑が建てられている。
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櫓台上から摩耶山城方面を
櫓台上から、木々の隙間を通して摩耶山城が望むことができる。
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中央曲輪群と西曲輪群を断ち切る二重堀切
本丸の西側には二重堀切がある。現在は遊歩道が土橋状になっているが、本来ここに土橋があったのかは定かではないようだ。
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西曲輪群側から二重堀切を
土橋を渡りきってから振り返って見ると、堀切が二重になっているのがよく分かる。
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西曲輪群
堀切を越えた所が西曲輪群で、最高所の標高は318.9mあり、中央曲輪群の本丸(標高316.5m)よりも若干高いが、この辺りは他の曲輪群に比べて削平があまい。また、あまり整備もされていない。そういえば、説明板の縄張図にも、この辺りは載っていない。
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神戸市街を見下ろす
東曲輪群や中央曲輪群からは、神戸市街を望める所がないが、西曲輪群の所々からは神戸市街の眺望が望める。
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堀切
西曲輪群から尾根筋を下ったところの鞍部には堀切の存在が認められる。
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