播磨 赤穂城(赤穂市)

復元された大手門北東隅櫓

忠臣蔵(赤穂浪士)でおなじみの城

別名

加里城

所在地

兵庫県赤穂市上仮屋

形状

平城(海城)

現状・遺構等

現状:赤穂城跡公園
遺構等:天守台、復元大手隅櫓、復元本丸門、復元厩口門、曲輪、石垣、堀、石碑、説明板
【国指定史跡】昭和46年

満足度

★★★★

訪城日

2006/11/26

歴史等

享徳年中(1452~1455)、赤松満祐の一族、岡光景が大鷹の城を築いたのに始まる。次いで、文正元年~文明15年(1466~1483)頃、岡光広が加里屋古城を築城する。天正年中(1587~1591)には宇喜多秀家が入部し、陣屋(代官屋敷)を構えた。
慶長5年(1600)の関ヶ原戦後の、池田輝政の所領となり、末弟長政が在城する。慶長18年(1613)赤穂は輝政の二男・ 岡山藩主忠継の所領となり、一重の掻上城(堀・石垣・櫓・門)が築かれた。
正保2年(1645)に常陸国笠間から5万3,500石でで入封した浅野長直が近藤正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648)から寛文元年(1661)まで13年を費やして完成した。
この城を築城した浅野家は、元禄14年(1701)の江戸城刃傷事件により断絶し、その後は永井家を経て森家の居城となり明治を迎えた。
『参考:パンフレット、日本城郭大事典(新人物往来社刊)』

現況・登城記・感想等

赤穂城といえば赤穂浪士(忠臣蔵)である。
赤穂城は5万石の城にしては天守台を始めとしてかなり大きな規模である。そして天守台に登ると本丸・二の丸・三の丸の城中核部は勿論のこと赤穂の景色が一望に見渡せる。
本丸には本丸門と厩口門が復元されており、二の丸庭園を復元工事中であった。 また、建物は復元されていないものの、本丸御殿が平面的に復元され、当時の御殿の間取りが良くわかるになっているのにはなるほどと感心した。下手に建物を復元するよりも、この方がいいかもしれない。
また、内堀(水堀)がミズゴケ?で緑の絨毯のようになっているのにも驚いた。うっかり飛び降りる人が居るのではと余計な心配をした(笑)。
城内には大正元年(1912)に創立された大石神社があり、参道に47士の像が並んでいるのも面白い。また城内や城外のあちこちに赤穂義士宅跡等々の石碑がたっている。しかし、さすが大野繰九郎兵衛宅跡の案内はあるが石碑はたっていなかった。そりゃあそうだろうなあと思うが、本当の歴史はどうだったのかな?
(2006/11/26登城して)

ギャラリー

赤穂城跡全体図(パンフレットより) ~クリックにて拡大画面に~
赤穂城全体図

【本丸周辺】
赤穂城本丸跡の図 ~クリックして拡大画面に~
赤穂城本丸縄張図

本丸門
本丸門は築城時(17世紀中頃)の建造と推定され、明治10年後半の取り壊しまでの約230年間存続していました。現在の門は、明治時代の古写真をもとに平成4年~8年(1992~1996)にかけて復元されたものです。本丸門は長方形の内枡形を備え、一の門である櫓門と二の門である高麗門の2門から構成されています。手前の高麗門がニノ門で、その奥に見える櫓門が一ノ門です。
本丸門

本丸一ノ門
本丸一ノ門

天守台
四方石垣の独立したもので、当初から天守閣は造られませんでした。石垣は切込みハギを主としています。昭和12年に崩壊部と石段が修復されました。
天守台

本丸御殿跡(天守台上から撮影)
本丸内の大部分は藩邸である御殿が占めており、その建坪は355坪余りであったといいいます。御殿は表・中奥・奥から構成され、表御殿は政務を行う公的な場、中奥は藩主の私的な場、奥は奥方や女中達の部屋として使用されていました。昭和62年~平成元年(1987~1989)に御殿の間取り復元がされました。
本丸御殿跡

くつろぎ池泉(天守台上から撮影)
古地図では「くつろぎ」と帰され竹林が描かれているだけでしたが、平成元年(1989)の発掘調査によって池泉跡が発見され、平成2年(1990)に復元整備されました。
くつろぎ池泉

天守台からの眺望 ~クリックにて拡大画面に~
天守台上からは本丸・二の丸・三の丸の城中核部は勿論のこと、赤穂の景色が一望に見渡せます。写真奥の山には赤穂の「赤」の文字が見えます。
天守台上からの景色

厩口門(台所門) 
厩口門は浅野時代の名称で、森時代は台所門と通称されていました。
厩口門を内側(本丸内)から撮影
厩口門内側

厩口門を外側(二の丸)から撮影
厩口門外側

刎橋門
本丸の南面、藩邸の裏手にあたる門で、非常門とも不浄門とも伝えられます。建坪5坪の小門で、ここから二の丸に跳ね橋が架けられていました。平成9年(1997)に検出、復元整備されました。
刎橋門を内側(本丸内)から撮影
刎橋門内側

刎橋門を外側(二の丸)から撮影
刎橋門外側

本丸水堀(内堀)
ミズゴケ?で緑の絨毯のようになっています。うっかり飛び降りる人が居るのではと余計な心配をしました(笑)。
本丸北面東側の堀
本丸内堀北面東側

本丸東面北側の堀
本丸内堀東面北側

【二の丸周辺】
二の丸門跡
浅野長直に仕えていた軍学者山鹿素行が赤穂に来て、 虎口の縄張りの一部を変更したことで知られています。
二の丸門跡

かつての二の丸門(現地案内板より) ~明治10年代撮影~
二の丸門は櫓門だったようです。
二の丸門

かんかん石
二の丸門跡脇に置かれている半畳ほどの二つの大きな石は門の築石の一部で、小石を持って叩くと「かんかん」という音をたてることから、誰言うとなく「かんかん石」と呼ばれているそうです。
かんかん石

二の丸外堀
二の丸門跡の脇には、二の丸外堀が残っています。
二の丸外堀

二の丸庭園跡
二の丸庭園は規模・質ともに「大名庭園」にふさわしい庭園だったそうです。発掘が終わり、現在(2006/11/26)整備工事中でした。
二の丸庭園跡

二の丸北東隅櫓台
二の丸北東隅櫓台の上には、往時は二層二階の櫓が建っていたようです。
二の丸北東隅櫓

【三の丸周辺】
大手門
大手門は明治期に取り壊された。現在の高麗門は昭和30年(1955)に大手隅櫓とともに再建された。
大手門

大手門内枡形
大手門の虎口は68坪の内枡形をなし、東面する高麗門と南面する櫓門からなる雄大な城門でした。高麗門は復元されていますが、櫓門はまだ復元されていませんでしたが、見事な枡形の様子がよく分かります。

大手門内枡形

大手北東隅櫓
大手門の北にある二重櫓で、東西4間半、南北3間半の基底部を持つ櫓です。大手門を監視する到着櫓としての性格を持ち大手門防備の要となる櫓です。明治年間に取り壊されましたが、大手門や土塀とともに再建されました。左端に大手門が見えます。 
大手門隅櫓

大手東隅櫓台
大手門の南東には大手東隅櫓台があります。左奥には二の丸北東隅櫓が見えます。
東隅櫓台

清水門跡
「川口門」とも呼ばれた清水門は、刃傷事件後の赤穂城明け渡しの際、大石内蔵助が最後に城と惜別した舞台として知られます。
清水門跡

米蔵跡に建つ赤穂市立歴史博物館
歴史博物館

大石家長屋門
大正12年(1923)国指定史跡に指定されました。 
大石邸長屋門

大石神社
三の丸の一部の大石内蔵助及び藤井又左衛門の屋敷跡に大正元年(1912)に建立され、祭神は赤穂義士47人及び萱野三平・浅野家3代・森家の先祖7代の武将。参道には、赤穂義士47人の像が並んでいます。 
大石神社

塩屋門跡
赤穂城の搦手門である塩屋門は、内枡形になっています。枡形内には太鼓櫓があり、門の内外にある侍屋敷に向け合図を行ないました。枡形石垣は、一部崩れてはいますが、枡形内部の雁木板や枡形外面の複雑な折れなども見られます。尚、この門は浅野内匠頭長矩の切腹を知らせる早籠がくぐった門として、また赤穂城明渡しの際に、備中足守藩主が入城した門としても知られます。
塩屋門跡

西隅櫓台
塩屋門のやや南にあるこの西隅櫓台には往時は二層二階の櫓が建っていたようです。 
西隅櫓

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