但馬 八木城(養父市)

山頂に残る壮大な高石垣

秀吉の但馬攻めで落城、大修築による壮大な石垣が残る織豊系山城

別名

八木石城、石の城

所在地

兵庫県養父市八鹿町八木
【アクセス】
高柳小学校から国道9号線を1.3km程西進すると道路に城跡の案内が出ているのでそこを右折し100mほど行くと正面にお堂があり、説明板等がある。この100m先左側が登城口。駐車場はないので、適当な空地に停めるしかない。
高柳小学校:養父市高柳1113-1 電話079-662-2058

所要時間

登城口から本丸まで約35分。

形状

山城(標高330m、比高230m)

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、石垣、堀切、石碑、説明板(山頂と山麓に)

満足度

★★★★★

訪城日

2009/05/09

歴史等

鎌倉時代初期、朝倉城(八鹿町朝倉)の城主朝倉高清がこの西方の峯に築かれていた土城(八木土城)の城主閉伊十郎行光と戦い勝利をした後、次男八木安高(説明板には三男重清とあった)を初代城主に置いたのが八木城の始まりといわれる。以来豊信まで15代およそ400年にわたり一大勢力を保持した。
承久の変の時に、鎌倉方へ味方して所領を安堵され、室町時代以降は、出石を本拠として全国にその名を覇せた山名氏の傘下に入り代々山名四天王の一人として重きをなした。
戦国時代の末期、主家山名氏が衰えると、太田垣氏や垣屋氏とともに独立し、毛利方と結んだ。
天正5年(1577)、織田信長の命を受け中国の毛利攻略に向かった羽柴秀吉は姫路城を拠点として、先ず毛利勢の及ぶ播磨・但馬を平定したが、天正8年(1580)3月八木城も落城し、城主豊信は秀吉の家来になった。
天正13年(1585)秀吉は配下の別所重棟をここに封じ、19年(1591)から嫡子吉治が継いだ。この間に、八木城は石垣など大修築がされたと思われる。
しかし、吉治は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で西軍に属し、除封され、八木城もこの時以降廃城となり400年にわたる長い歴史に幕を下ろした。
吉治は敗戦で所領を没収されたが、徳川家に仕える春日の局が伯母にあたるよしみをもって許され、翌年佐渡の比由良城へ移封された。
尚、八木氏は、その後、徳川氏に仕え、直系は東京に在住し現在に至っているとのことである。
『「現地説明板」、「日本城郭総覧(秋田書店刊)」他参照』

現況・登城記・感想等

山城は麓から歩いて登り、山頂の目的地に到着すると達成感のようなものが得られる。
山城の登城道の多くは七曲がり道であるが、この八木城は、山麓の「下八木口」から、尾根に沿った約1kmの一直線の登城道を、35分強ひたすら登る相当厳しい山登りとなる。
それだけに、感慨もひとしおだ。ましてや、これほど壮大な石垣が山の上にあるとは想像していなかっただけに強烈な印象で、山登りの疲れも吹っ飛んでしまった。
石垣は、山石を荒削りした石材が使われた穴太流石垣で、高さは9.3mあるそうだ。
秀吉による但馬・播磨平定の折に落城し、配下の別所重棟・吉治親子がここに封じられた時代に築かれたものであろう。さすがに、秀吉とその配下の築城術は見事なものである。
本丸には、天守やそれ相当の櫓が建てられていたであろう櫓台が残っている。
八木城の縄張りは、この本丸を取り囲むように二の丸が配置され、東に6段、南に5段、北に3段の曲輪が配置され、山全体に城郭を配置している。
更に土城へと続く尾根には堀切がある。
(2009/05/09登城して)

ギャラリー

八木城縄張略図(山麓の説明板より)
00八木城縄張図

㊧山麓の説明板等、㊨登城口案内板と杖
国道9号線脇に立つ「八木城登山口案内板」の所を100mほど入ると、㊧縄張図付きの説明板と説明文付きの石碑等がある。㊨そこを、更に100m弱進むと、案内板の裏側に杖代わりのスキー用のストックや木の杖が置かれている。八木城(石の城)はともかく、土城へ登るのには持参必須である。
案内板 杖

登城口
案内板に従って進むと、登城口(八木城跡0.9kmも看板あり)へ出るが、獣よけの鉄線で囲まれ、それをはずして入城する。
登城口

登城道
八木城へは、尾根沿い或いは尾根上の一直線の坂道をひたすら登る。
登城道1 登城道2

石垣
登城口から10分ほど、ひたすら登ると石垣が現れます。
石垣

さらに・・・
さらに登って行くと、「←中八木」、「←上八木」の看板が・・・。山麓の案内板によると、「上八木」や「中八木」から登る近道もあったものの、現在は藪で通れないような感じだったが・・・?そしてさらに痩せ尾根を登って行く。
登城道3
登城道4

城域到着
登城口から、ひたすら登ること20分ほどで、「これより八木城跡」の標柱が。
これより八木城域

三の丸下
城域に入り、左手上に塁段になった曲輪を見ながら進むと三の丸下へと出る。道の右側は、写真では分かり辛いが強烈な急崖である。
三の丸下

三の丸
㊧さらに、しばらく登って二の丸下の所から三の丸へ登った。三の丸には、古い標柱が立っていた(残っていた?)。それによると、三の丸は長さ66m、幅17mもあるそうだ。
三の丸

二の丸
三の丸から二の丸へ登ると、正面に高い土塁が現れた、本丸である。土塁のように見えたが、土の中から、あちこちに石が覗いている。おそらく石垣に、長年かけて土がかぶったのだろう。二の丸は、本丸を取り囲んでいるようだった。取り敢えず左側から廻った。
二の丸

天守台石垣
左へ廻って見ると、見事な石垣が現れた。形からして天守台石垣であろうか。ここまでの疲れは吹っ飛んでしまった。感激して、しばらく魅入ってしまい。いろんな角度から、何枚も写真を撮ってしまった。右の方へ廻って、石垣上へ登れるようだったが、取り敢えず石垣の周りを一周しようとさらに左の方へ廻って行った。
天守台石垣

壮大な高石垣
左へ廻ると、さらにスゴイ石垣が奥の方へと続いている。上写真の天守石垣でさえ驚いたのに、これはまたスゴイの一言ダ!!天守石垣から奥まで、長さ50mはゆうに有るだろう。
高石垣

帯曲輪
高石垣の下には帯曲輪が設けられている。
帯曲輪

さらに・・・
帯曲輪の下にも石垣が残っている。さらに、その下は腰曲輪が何段もあるようだが、そこにも石垣が残っていた。
高石垣2

腰曲輪
帯曲輪から見下ろしたもの。
腰曲輪

本丸①
本丸には説明板と標柱が設置されている。
本丸

本丸②
本丸の西側には土塁(石塁)が残っている。
本丸2

本丸土塁
本丸土塁

櫓台跡
本丸には一段高くなった櫓台跡がある。かなり広いので、ひょっとしたら、こちらが天守台なのだろうかと間違えそうです。
櫓台

八木城本丸上から見上げる土城
本丸から西方に山が見える。土城である。折角ここまで来たんだし、これからもそうそう来れる所ではない。当然、チャレンジ!!この八木城(石城)で比高230m、八木古城(土城)は比高310mである。ということは、ここから更に、80mを登るわけだ~!!詳しくは「八木土城」のページで・・・。
土城を

堀切
北西から土城へと登る尾根道があるが、その途中に堀切が切られている。かなり埋ってしまい、写真では分かり辛いが・・・。
堀切

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