天守台石垣を
明智光秀が改修し居城、後にこの城から出陣し本能寺の変を起こす
別名
亀岡城
所在地
京都府亀岡市古世町
形状
平城
現状・遺構等
【現状】本丸・二の丸は大本教の本山、他は市街地
【遺構等】天守台、本丸石垣、堀の一部
満足度
★★★☆☆
訪城日
1995/08/04
2006/04/03
歴史等
室町時代、内藤氏が丹波八木城の支城として亀山砦を築いたのが始まりといわれている。
この地は京都と山陰を結ぶ街道上に位置し、交通や戦略上の重要地であり、天正3年(1575)から5年をかけて丹波を平定した明智光秀は、織田信長の命を受けて天正5年(1577)から天正7年(1579)にかけて城を大改修した。
天正10年(1582)、明智光秀は亀岡の城で中国地方出兵の準備を整え、6月1日この城から出陣したが、鉾先を変え京都本能寺に信長を倒した。
山崎の戦いで光秀が没した後は、羽柴秀勝、小早川秀秋らが入り、秀秋の時代には三層の天守を五層に改修している。 その後、天正13年(1585)前田玄以が丹波亀山5万石の城主となった。玄以の次男茂勝が封を継ぐが、慶長7年(1602)丹波八上へ移封した。
これより、岡部氏、(大給)松平氏、菅沼氏、(藤井)松平氏、久世氏、井上氏、青山氏と頻繁に交替したが、寛延元年(1748) 丹波篠山より(形原)松平信岑が入封すると、(形原)松平氏が8代122年在城し明治を迎えた。
慶長14年(1609)岡部長盛が城主のとき、大坂の豊臣氏に対する包囲網の一環として天下普請の大改築が行われた。このとき天守は藤堂高虎が造った伊予今治城の五層の天守が移築されたと云われる。
また、藩の名前が亀山と呼ばれていたが、三重県の亀山と紛わらしいので明治2年(1869)に「亀岡」と改名され、明治10年(1878)には天守閣以下建物が取り壊された。
大正8年(1919)本丸・二ノ丸が新興宗教「大本教」が購入し、神殿を築いた。
しかし「大本教」は戦前、政府により2度にわたる大弾圧(大本事件)を受けた。特に、昭和10年(1935)の第二次大本事件での弾圧は徹底したもので、城内にあった宗教関連施設は1500発のダイナマイトで爆破され石垣までことごとく破壊され、象徴的な石は再利用できぬよう日本海に捨てられた。
戦後再建され、大本教の本部が置かれ、現在に至っている。
『「日本城郭大辞典(新人物往来社刊)」、「大名の日本地図・中島繁雄著(文春新書刊)」、「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」等参照』
現況・登城記・感想等
保津川下りに行った時に寄った。割合風情のある綺麗な水堀と石垣が残っており、本丸へ行こうとしたら、何と!そこは大本教の本部になっており入城を諦めた。それにしても、何故、城址に宗教団体が!!!
それと訪城してから随分経ったが、堀の写真を撮ったつもりでいたが無い。ゔ〲〰。機会があったら、また行くか。
また、当日は保津川も水量が少なく、全くスリルの無い川下りであったし、それに大本教本部の受付に見学を申し込むと、本丸内も見せてくれるらしいし・・・。
(1995/08/04訪ねて)
10年半ぶりに、2回目の登城をしてきました。
宗教の苦手な私としては、勇気を出して大本教の受付で見学をお願いした。すると、何と説明までしてもらい天守台も見ることができました(但し、天守台の上は聖域ということで登ることは出来ませんでしたが)。
往時の石垣は下から3段目までだそうです。天守台の横には明智光秀の手植と云われる大きな銀杏の木もありました。内堀も残っていて、一部は水堀に修築され、残り部分は空堀として残っていました。本丸から見る内堀は結構広く、また深く掘られていました。
(2006/04/03登城して)
【丹波亀山城縄張】
丹波亀山城は、」比高10mほどの小高い丘の上に築かれ、中央の最も高い部分が本丸で、この中央には天守があった。
明智光秀によって建てられた創建当初の天守は3層の天守であったが、後の小早川秀秋の時の文禄2年(1593))に5層に改築され、さらに慶長14年(1609)には層塔型5層5階の大天守と2層の小天守が複合した複合式天守になったようである。
亀山城は、北に保津川、東に年谷川、西に曽我谷川、雑水川を天然の防御ラインとし、内堀・外堀・惣堀、三重の堀と土の城壁、御土居が城を守っていた。
更にお堀沿いには寺院や神社、旧家が並ぶ城下町は迷路のように複雑で、簡単には本丸に近づけないよう工夫されていた。
ギャラリー
丹波亀山城古地図(南郷公園案内板より)~画面をクリックにて拡大画面に~
亀岡光秀まつり
亀岡駅を出て商店街へ行くと、「亀岡光秀まつり」のポスターを見つけました。かつては悪者扱いをされていた光秀ですが、光秀は何処でも善政を行ったようで、何処でも英雄ですね。
私も、「司馬遼太郎」の「国盗り物語」を呼んで以来大ファン(妻は私以上)です。
城址全景
亀岡駅から南へ向かうと、比高10mほどの丘(亀山城跡)が見えてくる。確かに、亀のような山あるいは亀のような形をした丘(岡)である。
亀山城天守棟鯱瓦ブロンズ像
亀山城の天守棟にあった鯱瓦は明治11年頃廃城により京都市の森川喜兵衛氏に払い下げられた。その後、明治13年京都府医学校(現京都府立医大)の新築に際し寄贈され、講堂棟瓦の両端に使用されていたが、一対のうち片方は破壊されたが、残りの一体は現在京都府立医大に収蔵されている。
1995年に市制40周年を記念して、ブロンズ像として復元して亀山城跡を望むこの地(南郷公園)に設置された。
城址碑
南郷公園に設置された城址碑にも、わざわざ「明智光秀公築城」と記されています(*^_^*)。
外堀
外堀は北面部分のみが残り、今では南郷公園として綺麗に整備されている。
亀山城本丸・二ノ丸へ向かう
大本教の本部となっている亀山城本丸・二ノ丸跡へは外堀手前の道路を東へ向かい、東側の道を南のほうへ向かう。
大本教本部(本丸・二ノ丸跡)案内図 ~画面をクリックにて拡大画面に~
万祥殿と万祥池(内堀)
正門から入って直進すると右手に万祥殿が見え、その前には内堀(万祥池)が・・・。万祥殿で城跡見学を依頼したら、何と城跡案内までしてくれました(*^_^*)。
大正8年に大本教が買い取った時には水はなく、この区域だけは水を入れて修理したそうです。
本丸入口
大本教本部の方が本丸の方へと案内してくれると、右手に本丸の石垣が見えて来ました。左の門が本丸内へ入る門です。
天守台石垣が見えてくる
門をくぐって本丸内へ入ると右手前方に天守台石垣が見えてきます。戦後、信者たちが石を積み、石垣を復元させたということであるが、なにぶん、素人の手による復元だったので、現在見られる石垣は往時のものとはかなり様相を異にしているということである。
天守台
往時の石垣は下3段目までだそうです。右側の石段は最初の踊り場から立ち入り禁止になっています。尚、石段の奥の銀杏の木は明智光秀手植えの木と云われているそうです。
天守台上部を
天守台石垣の下を奥へ向かって行くと、そこにも石段がありましたが、天守台上部は聖域のため、ここからは立ち入り禁止です。