二の丸跡に復元された大書院
築城の名手・藤堂高虎の縄張りによる天下普請の城
別名
桐ケ城
所在地
兵庫県篠山市北新町
形状
平山城
現状・遺構等
【遺構等】復元大書院、天守台、本丸・二の丸・三の丸の石垣と堀、東馬出しの石垣、南馬出しの土塁
満足度
★★★★☆
訪城日
1995/10/08
1996/09/29
2006/12/23
歴史等
篠山はかつては、山陰と山陽、そして畿内を結ぶ交通の要衝であり、いくつもの街道がこの盆地で交差していた。
戦国時代以来、篠山盆地を押さえる城は八上城で、これを居城としていた波多野氏が明知光秀に滅ぼされた後も、何代か城主が入れ替っていた。
慶長14年(1609)天下を磐石にしようとする徳川家康は、豊臣方の拠点である大坂城を包囲すると共に、豊臣家ゆかりの西国の諸大名を牽制するために、それまでの領主前田茂勝(前田玄以の子)を除いて、松井松平康重(家康の実子といわれる)を封じた。そして、八上城を捨てて、篠山城を築くことを命じた。
築城工事は、旧豊臣大名の経済力を弱めることを目的に天下普請とされ、山陰道、山陽道、南海道(近畿・中国・四国地方)など15ヶ国20大名が動員された。城は当時「笹山」と呼ばれた独立丘陵を利用して築いている。工事は、開始から1年に満たない短期間でほぼ出来上がるという突貫工事で進められた。笹山は全体が岩盤で出来ていたため、難工事の中での完成であった。篠山城の縄張は、築城の名手といわれた藤堂高虎が行い、普請奉行は池田輝政であった。
堀を二重に廻らし、外堀の三方に出入口として馬出しを設け、防御に徹した城構えとなっている。天守台は築かれたが天守閣は、城の完成を急いだことと実戦向きの城としたため築かれなかったが(他にも説があるようだが)、二の丸には大書院に代表される御殿が建てられた。その大書院は二条城の二の丸御殿に匹敵する壮大な建築であった。
家康は、豊臣家が戦わずして臣従した場合、篠山に移すことを考えていて、その際の淀君、秀頼の住まいとする予定であったとする説もあるそうである。
その後、藤井松平氏(2代)、形原松平氏(5代)が歴封。寛延元年(1748)丹波亀山より青山忠朝が5万石で入封し、以後青山氏が6代にわたって居城し明治を迎えた。なお、4代忠裕の長年にわたる老中職の功で1万石の加増を受け6万石となった。
『「現地説明板」、「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」等参照』
現況・登城記・感想等
篠山城はさすが天下普請の城で、しかも築城の名人・藤堂高虎の縄張りだけあって、小藩のわりに随分規模が大きい。石垣群もかなりのもので、規模が大きいだけでなく、切込みハギと打込みハギの高度なものである。
また、武家屋敷群や歴史村など見どころも多く、町並みも昔の名残が残っていて散策しても楽しい。
そして、丹波篠山と言えば、「デカンショ節」の発祥の地として有名であるが、それ以上に「松茸」「丹波の黒豆」「丹波の小豆」「丹波栗」の産地であり、9月の末から10月初頭はその「黒豆の枝豆」の季節である。これらは全て高級品であり、品質は最高である。いずれも確かに美味い。特に、私は「黒豆の枝豆」が大好物で、京都の錦市場では「紫頭巾」という名前で結構な値段で店に並んでいる。
(1995/10/08、1996/09/29に登城して)
久し振りに登城したら、大書院が復元されただけでなく、内堀や三の丸が発掘復元工事中であった。
改めて、小藩のわりに城郭が大規模なこと、石垣群の素晴らしさに見とれてしまった。ただ、大手門方面が逆光で写真がよく撮れなかったのが残念!
発掘及び復元工事が完了したら再登城したいものだ。
(2006/12/23登城して)
ギャラリー
大手表門前
ほぼ10年ぶりに登城したら、大手表門周辺と三の丸西部分(内堀と三の丸跡)が発掘調査及び堀の復元工事中でした。
大手虎口
大手桝形虎口の石垣は見事ですが、逆光のため、まともな写真が撮れなかったので、10年前に登城した時の写真を使用しました。
二の丸跡
二の丸跡には大書院が復元され、二の丸御殿などの建築物群が平面的に復元表示されている。
大書院は歴代藩主による公式行事に使用された場所で、京都二条城の御殿を参考にして建てたと伝えられている。廃城後もこれだけが残されたが、昭和19年の失火で失われた。平成12年3月復元された。
本丸跡
築城当初は現在の二の丸が本丸で、現在の本丸は天守台が造られたことから殿主丸と呼ばれていた。背後に天守台が見える。
本丸跡から見る天守台
天守台は本丸内側からの高さは約4mである。
本丸及び二の丸の石垣と天守台(小学校校庭にて撮影)
天守台石垣の高さは約17m、平面規模は東西約18m、南北約20mである。築城時に天守閣は江戸幕府の指示により、城郭が堅固すぎるとの理由で建築を中止し、天守台南東隅に4m四方の一重の隅櫓が建てられた。