八上城伝本丸石垣(岡田丸から撮影)
丹波三大城郭の一つ、明智光秀の母親が人質となり殺害された伝説がある城
所在地
兵庫県篠山市八上内
形状
山城(標高459m、比高約230m)
現状・遺構
【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、石垣、堀切、土塁、石碑、説明板、遺構案内板
満足度
★★★★☆
訪城日
2006/12/23
歴史等
八上城は、戦国時代に多紀郡(現篠山市)を支配した波多野氏5代にわたる居城である。初代清秀は応仁の乱(1467~1477)の戦功によって、室町幕府管領細川政元から多紀郡を与えられ八上へ入る。その後、波多野氏累代は、戦国時代を通して勢力を蓄え、大永7年(1527)に管領細川高国を放逐、天文7年(1538)に丹波守護代内藤氏を攻略、永禄年間(1558~69)には三好長慶や松永久秀と戦いを繰り広げる。
波多野氏は、まず奥谷城(蕪丸)を、続いて本城の八上城、さらに殿町にあった城下町を守るため支城の法光寺城を築き、一帯を大要塞化し、大規模な戦乱に対応した城造りを進める。
天下布武を目指す織田信長が上洛すると、5代秀治はそれに従わず、天正3年(1575)信長が派遣した明智光秀の攻撃を受ける。光秀は八上城の周囲に付城を巡らし、八上城を徹底包囲する。天正7年(1579)6月、4年にわたる籠城戦のすえ落城し、秀治ら兄弟3人は安土城下に移され落命する。この時、なかなか城が落ちないので、光秀は母親を人質に出して波多野秀治らの安全を保証して投降を誘い、光秀は彼らを信長の下に連れていったところ、思いもかけず磔に処され、ために光秀の母も城内で殺害されてしまったとういう逸話がある。
落城後の八上城は、前田茂勝(前田玄以の子)ら豊臣氏に縁する大名の城として使われる。しかし、関ヶ原の戦いによって徳川家康が天下を押えると、豊臣秀頼の拠る大坂城を包囲するため、慶長13年(1608)に江戸幕府から篠山城築城の命令が出され、八上城は100年余りにわたる歴史を終える。
『「現地説明板」、「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」参照』
現況・登城記・感想等
八上城は篠山市の丹波富士とも呼ばれる高城山の山頂を中心に尾根伝いに曲輪が築かれた山城で、丹波国内では八木城・黒井城と並んで三大城郭の一つといわれ、中世山城としては有数の規模を誇ります。
明智光秀の母親が八上城主の安全と引き換えに人質として入城し、織田信長による八上城主殺害のために磔にされた城として有名です。
さすが、光秀をして攻城を困難にした城です。昨日の3万歩にもわたる歩行に加えて、深酒が響いたこともありますが、比高差230mの山頂部の本丸まで40分ほどの登城はかなりきつかったですね(苦笑)。
春日神社側から右衛門コースを登ると、曲輪跡等々が次々と現れますが、薮がひどくて・・・(/。ヽ)。三の丸まで登ると整備もよく、階段状に三の丸・二の丸・本丸と続いていて、少し嬉しい気分になります。
山頂の本丸跡には石碑が建ち、本丸切岸には石垣が少し残っています。
下りは反対側から下り、芥丸コースで降りて来ましたが、こちら側の道は傾斜が少ないこともあり、防御のためか、かなりの数の堀切が認められます。
(2006/12/23登城して)
ギャラリー
八上城周辺の城砦群(本丸跡説明板より)~画面をクリックにて拡大画面に~
本丸跡には、八上城周辺の城や砦跡の地図が載っていますが、周囲のほとんどの山が城・城・城・・・で、戦国時代の丹波地方の様子が目に浮かびます。
八上城全景
八上城は、丹波富士とも呼ばれる形の良い高城山の山頂を中心に尾根伝いに曲輪が築かれている。
八上城絵図(山麓道路脇登山案内板より)~画面をクリックにて拡大画面に~
八上城本城の縄張り(現地本丸跡説明板より)
主膳屋敷跡
八上城跡の北麓にある春日神社口から登城し、右衛門コースを少し歩いて行くと「主膳屋敷跡」が現れます。慶長7年(1602)前田玄以の次男(三男とも)前田主膳正茂勝によって築かれた政治の中心となった館跡である。茂勝は八上に五万石で配され八上城主となったが、慶長13年(1608)乱行によって所領を没収されました。その後、幕府による篠山城築城の普請のため松平康重がこの屋敷に入ったが、篠山城完成と同時にここも八上城と共に廃された。
前田主膳正供養塔
前田主膳茂勝の供養塔も建てられています。
登城道
主膳屋敷跡からは、急斜面を九十九折れの道を登り尾根上を目指します。今回の登城もかつての同僚増っさんとです。昨日の3万歩にもわたる歩行と深酒が響いたこともあるが、40分ほどの登城はかなりきつかった(苦笑)。
鴻の巣
九十九折れの登城道を登り切った尾根の先端には「鴻の巣」と呼ばれる砦跡があります。北麓御前屋敷の堀と西麓の堀を警備した砦跡です。
下の茶屋丸
登城口から登り始めて20分弱で「下の茶屋丸」へ着きます。ここは西から近づく敵に備えた重要陣地だけあって、眺望はなかなかいいです。ここから先(北西)の尾根上には、「中の壇」、「上の茶屋丸」と呼ばれる小砦群が築かれています。
下の茶屋丸から八木城跡本丸方面を望む
さて、さらに本丸へと向かいますが、山頂部本丸跡までは、まだまだあります。
中の壇
上の茶屋丸
右衛門丸跡石垣
右衛門丸跡は、城主の屋敷跡で、西方を防備し、蕪丸にも通じ、全山の連絡や指揮にあたるところ。
三の丸跡
三の丸からは、よく整備がされています。三の丸・二の丸・本丸は階段状に曲輪跡が続いています、三の丸は南方谷間に対する重要防備陣地と思われる。二の丸は、門の礎石と屋敷の瓦の断片等より、最も重要な任務を担当した場所と思われる。
二の丸跡
二の丸は、本丸周囲を取り囲んでいます。門の礎石と屋敷の瓦の断片等より、最も重要な任務を担当した場所と思われる曲輪です。右奥の土壇上が本丸です。
本丸跡に立つ石碑
本丸は、望楼と軍兵の集合する場所からなり、四囲の城・砦を指揮号令するところだったようです。本丸跡には、波多野氏最後の城主・秀治の表忠碑が建てられています。
本丸跡からの眺望
本丸周囲には、今では木々が生い茂っていますが、北方面だけ多少開けています。往時は、周囲全体が見渡せたことでしょう。
本丸から岡田丸を
本丸周囲を取り囲む二の丸ですが、北東に張り出した部分は特に「岡田丸」と呼ばれているようです。
岡田丸から本丸石垣を
本丸の南から北東部にかけては、石垣が良好に残っています。
蔵屋敷跡
本丸をあとにして、登城して来た道とは反対の東へ向かうと、すぐ「蔵屋敷跡」へ出ます。蔵屋敷は、他にも多くあるようです。
池東上の番所
蔵屋敷の先は、急な下り坂にありますが、堀切で断ち切られていたようです。その本丸側には番所があります。堀切に突撃してくる敵を掃射したところだそうです。
尾根道
その先は、長い尾根道が続きます。
伝はりつけ松跡
尾根道を東へ歩いて行くと、「はりつけ松跡」が・・・。落城の際、明智光秀の母、付人、腰元等人質の処刑に使った松の跡と伝えられるそうであるが、後ろの朽ちた松の木がそれですかねえ?
大堀切
さらに歩いて行くと、堀切が現れます。写真では分かり辛いかもしれませんが、かなり規模が大きいです。城の東側は、傾斜が少ないこともあり、防御のためか、かなりの数の堀切が認められます。
土橋
この大堀切には土橋が架けられています。
馬駈場
次に「馬駈場」が現れます。東方山麓に通じる人馬急送のために設けられたものだそうで、長さ220mあります。
芥丸跡
さらに東へ向かって行くと「芥丸跡」へ出ます。芥川某の砦跡で、東・東北方面・山麓の街道等の防備に当たったところです。
芥丸跡からの眺望
当然、芥丸跡からの眺望は良いです。この眺望を見て、あとは、ひたすら山道を下山です。