丹波 須知城(京丹波町)

須知城本丸東面の高石垣

明智光秀の丹波攻めに協力的であったが、後に離反して落城した須知氏の城

読み方

しゅうちじょう

別名

市森(いちもり)城

所在地

京都府船井郡京丹波町市森
【アクセス】
玉雲寺の正面(北東から東側にかけて)の山が城跡で、登城口は山の北西になります。玉雲寺前の少し北に二俣に分かれる道があります。右の道へ入り250m程未舗装路を北上すると、右手土手の石垣が切れるところに階段があります。その階段を登って、そのまま50~60mほど進んだ辺りに登城口(夏場は見落としやすい)があります。車は、未舗装道路が少し広くなった辺りに停めました。
玉雲寺:京丹波町市森滝見9、電話0771-82-0628

形状

山城(標高384m、比高約190m)

現状・遺構

【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、石垣、虎口、竪堀、堀切

満足度

★★★★★

訪城日

2007/12/21
2014/05/18

歴史等

須知(しゅうち)城主の須知氏は鎌倉幕府倒幕の際、足利尊氏に従った。しかし、南北朝には南朝側に付き、北朝に攻められ一時没落したようであるが、戦国期に入り、盛り返したようである。
織田信長の丹波攻略による明智光秀の丹波攻めの際には、早くから光秀に協力的で、須田元秀は八上城・波多野氏についた義父・内藤備前守と戦かったが負傷して死亡した。その後、天正4年(1576)頃に城は明智氏のものであったようである。
天正初期に織田氏から離反して明智光秀に攻められ落城したようである。

現況・感想等

須知城は、玉雲寺の北東に聳える山の尾根上に東西に曲輪群が一列に並ぶ連郭式山城で、明智氏が修築し石垣で固めた西曲輪群と、堀切を隔てて須知氏が築いた東曲輪群からなります。
西曲輪群は、最頂部である東端に本丸を置き、西へと階段状に曲輪を連ねています。
本丸の東端には土塁があり、その東側面には高さ5~6mほどの高石垣が築かれていますが、この高石垣は見事なもので、「こんな山の上に、これほどの高石垣がw(*゚o゚*)w。さすが光秀さん!」とばかり感激です(*^_^*)。
本丸は、西端にも石垣が残っています。
また、本丸の西の曲輪(二の丸?)の西端にも石垣が良好に残り、その南側には枡形虎口状の石垣が残っています。
今回は時間の関係で、西曲輪群だけ見て戻ってきましたが、それだけでも充分見応えのある城跡でした。
また、いつか再登城して、東曲輪群も見て廻りたいものです。
(2014/05/18登城して)

ギャラリー

須知城全景(2007/12/21に北側から撮影)
00全景

須知城全景(南西麓にある玉雲寺前から撮影)
北西麓(写真の左方面)から登城します。
00全景2

玉雲寺(2007/12/21撮影)
玉雲寺は応永23年(1416)須知城主・須知氏によって開創されたと伝えられ、当初は琴滝のすぐ近くにあったといわれれる。明智光秀の丹波攻めの時に全焼し、光秀が禅師の遺徳をしのび、天正8年(1580)に現在の地に境内を移して再興したものです。
まるで、近世城郭のような素晴らしい石垣です。
01玉雲寺

【登城記】
丹波には石垣等の遺構が良好に残る山城が多い。この須知城も、その一つで、是非とも登城したい城でした。
ところが、これまでに2度の登城に失敗し、今回が3度目のチャレンジです。
1度目は、地元の方(当日開催のすぐ近くにある琴滝での冬ホタル鑑賞会の実行委員)にも尋ねたが、登城口が分からず断念。
2度目は、山登りが得意のN氏も一緒だったので登城口らしき所は分かったものの、朝からの大雨で断念。
というわけで、今回、3度目のチャレンジで遂にリベンジに成功しました(*^_^*)。
(2014/05/18)


登城口1
2度目の登城予定の際に、N氏が見つけた登城口で正解でした。車は、この写真近くの、多少道幅が広くなっている所に停めました。
01登城口

登城口2
草木の元気な季節だったので、分かり辛かったですが、気を付けて見れば分かります。
03登城口

登城道
1度目の登城(2007/12/21)の際に、登城口が分からず、地元の方(当日開催のすぐ近くにある琴滝での冬ホタル鑑賞会の実行委員)に尋ねると、 「よく分からないが、最近道が崩れて登れなくなったように聞いている。元々道も整備されていないし、お薦めしない。少なくとも、「琴滝」 の方からは登れなくなっている。」と聞いていたので、てっきり道は整備されていないものと覚悟していましたが、登城口から入ると、いきなり綺麗に整備された道がありました。
05登城道

土橋のような道
登城口から3分ほど登ると尾根上へ出ます。尾根上は、土橋或いは一騎駆けのような道になっていますが、往時のものではなさそうです。
07土橋様の道

急坂
さらに10分ほど山道を登って行くと、いよいよ道なき道となります。写真では分かり辛いかもしれませんが、かなりの急坂です。
09登城道急坂

西曲輪群が
急坂を5~6分ほど登って行くと、西曲輪群のある尾根へ出ます。
11尾根へ

尾根からの眺望
尾根上に登ると、北側眼下に景色が少しだけ見えます。
13眺望

西曲輪
尾根上の左(西)側には、西曲輪群先端部の曲輪があります。この曲輪から東方面へは、最頂部の本丸まで階段状に曲輪が続きます。
15西郭

西曲輪櫓台
西曲輪の西端部には、櫓台でしょうか、厚めの土塁(土壇)が確認できます。
西曲輪櫓台

段曲輪
西曲輪から東へ向かうと段曲輪が現れます。
17段曲輪

段曲輪と二の丸の石垣
そして、さらに段曲輪が現れ、その向こうには石垣が見えて来ます。二の丸の石垣です。
19段曲輪

腰曲輪
段曲輪上へ上るために右側へ廻ると、曲輪の下に腰曲輪が設けられていました。
21腰曲輪

二の丸の石垣
段曲輪の上に上がると、正面に高さ2~3mほどの石垣が阻みます。この石垣は、なかなか良好に残っています。
23二の丸石垣

二の丸虎口
二の丸への虎口は、石垣の右(南)側にあります。ほぼ正方形に近い形の枡形虎口で、石垣も良好に残り、なかなか見応えがあります。
25二の丸虎口石垣

二の丸
写真奥は本丸の石垣です。
27二の丸

本丸の石垣
二の丸から本丸の石垣を撮ったものです。本丸の石垣は、二の丸の石垣よりもやや高く、3m強ありますが、かなり崩れています。
29本丸石垣

本丸
本丸への虎口も、石垣の右(南)側にあります。こちらの虎口も往時は、ほぼ正方形の枡形虎口だったようですが、かなり崩れてしまっています。本丸の東端(写真奥)には土塁が見えます。
33本丸

本丸から二の丸を
本丸上に上り、二の丸を振り返って見たものです。二の丸側から見ると本丸石垣は、かなり崩れていますが、本丸側は、かなり良好に残っています。
31本丸から二の丸を

本丸からの眺望(北側)
須知城跡からの眺望は、あまり良いとは言えませんが、本丸跡から北側だけは開けています。本丸北側は絶壁で、遥か下に田園風景が見えます。
35本丸からの眺望

本丸土塁
本丸の東端には、高さ3m弱の土塁が巡っています。
37本丸土塁

本丸土塁の上
本丸東端の土塁上には石が転がっています。往時は、少なくとも上部は石垣で固められていたようです。
39本丸土塁上

本丸土塁上から本丸東面の高石垣を見下ろす
土塁上から下を覗くと、立派な石垣が見えましたw(*゚o゚*)w。しかも、苔むしていて、本当にかっこいいです(*^_^*)。 
41土塁上から東面石垣を

本丸東下へ向かう
本丸東下へは、土塁の北側から、何とか下りて行くことが出来ました。往時は、どのように行き来をしたのか分かりませんが、かなり危険です。
42東面石垣

本丸東面の石垣(北側から)
本丸東面の石垣は、高さ5~6mほど、総延長30m近くあり、明確な折れが3ヶ所見られる野面積みで、角部は算木積みの原型のような積み方になっています。
45東面石垣

本丸東面の石垣(正面から)
この本丸東面の高石垣は本当に見事で、「こんな山の上に、これほどの高石垣が・・・w(*゚o゚*)w。さすが光秀さん!」とばかり感激します。ついつい、何枚も写真を撮り続けてしまいました。
47東面石垣

本丸東面の石垣を(南側から)
49東面石垣

堀切を
本丸東面石垣下の平坦地から、東方面を見ると、その向こうに堀切(写真奥)が見えました。この堀切で、明智氏が修築し石垣で固めた西曲輪群と、堀切を隔てて須知氏が築いた東曲輪群に区分されます。
今回は、時間が無かったので、東曲輪群は次回に廻し、これで戻ることにしました。

堀切

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コメント

冨永公文(2008/02/08)

かつて、須知の役場を訪れた時、須知と周智の関係のレジュメをいただいたことがあります。わたしは静岡県浜松の出身ですが、遠州には周智郡という地名があり、須知氏と周智氏、ともに読みがなは「シュウチ」とききおよんでいますが、この関係について、資料を送っていただけませんでしょうか。 よろしくお願い申し上げます。

タクジロー(2008/02/10)

富永様
折角、コメント戴いたのですが、残念ながら、私もよく分かりません。
申し訳ありません。
私も、浜松には10年以上、また京都には3年ほど住んでいたので、非常に興味があり、調べてみたいと思います。
先日、兵庫県の三田市の歴史資料館へ行ったのですが、そこに明智光秀と丹波攻略で八上城の波多野氏については、かなりの史料がありましたが、須知氏についてはありませんでした。
また、何か分かりましたら連絡させて頂きます。

三木志染(2008/05/06)

私も昨日(5月5日)に須知城をめざして琴滝まで行き、案内板に記載されている城山をめざして登りましたが結局見つけることができませんでした。一つ奥の山に登ってしまったようです。玉雲寺さんや地元の方にも聞いてみましたが、城の存在はご存じでしたが登らたtことはなく、また登口の案内標識も見当たりませんでした。非常に残念でしたが、再度登口がわかれば挑戦したいと思っています。もしも、登口をご存じの方がいらっしゃれば教えていただけませんでしょうか。

タクジロー(2008/05/08)

三木さま
コメントありがとうございます。
城は玉雲寺の目の前の山であることまでは分かりましたが、私も、登城口は分かりませんでした。
いずれにしても、現在、道はほとんど整備されていないようです。
ただ、石垣等々遺構は実によく残っているようです。
私は、冬になるのを待って、再チャレンジしたいと思っております。

タカヤ(2008/12/24)

須知城は京都縦貫道の降り口から見ると、
真正面に見える山頂です。
登山道はありませんが、山頂から縦貫道降り口側に伸びる尾根の
先端から登るのが最も登りやすいです。
登り口は何もありませんが、少しあがると山道がありましたので、
別の所からのぼれるのでしょうが。

富永さん、ご無沙汰しております。
須知と周智、手元に史料がないので確実ではありませんが、
当時は当て字で、色んな感じが使われていたと思います。
信長文書などでも確かどちらもあったような・・・・・
共に同じ一族を指していると思います。

タクジロー(2008/12/28)

タカヤさま
貴重な情報を有難うございます。
京都は、何度でも行きたいところですが、先立つ物のこともあり、せいぜい年二回くらいしか行けませんが、須知城はいつかリベンジしたいと思います。

冨永(2009/07/09)

遠州の周智郡(しゅうちぐん)に住んで、名字の地とした一族が、鎌倉期に、この京都丹波に移住して、京都の須知(しゅうち)氏になったというようなことが、役場でもらったプリントに書いてあったような気がします。今、静岡県の周智高校は森高校と合併して、遠州中央高校となっています。

タクジロー(2009/07/09)

富永さま
貴重な情報をありがとうございます。
周智高校と森高校が合併ですか?
森町へは、以前よく行ったので懐かしいです。

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