琵琶湖岸に積まれた石垣の石
明智光秀が築城した安土城に次ぐ豪壮華麗な名城
所在地
滋賀県大津市下阪本町3丁目
形状
水城(湖城)
現状・遺構等
現状:坂本城址公園、琵琶湖底、市街地
遺構等:石垣の石、移築現存表門(聖衆来迎寺)、明智光秀石像、石碑、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2007/12/22
歴史等
琵琶湖には、漁労や水運に従事しながら、ときには刀を持って戦う「湖族」と呼ばれる水辺の民がいた。信長はその本拠地・堅田を襲撃し、
支配下に治めていくと同時に、安土城を中心とする新たなネットワークを創り出していった。
その拠点となったのが、坂本城(明智光秀)、長浜城
(羽柴秀吉)、大溝城(織田信澄)
の各城であった。いずれも琵琶湖の水辺に築かれた水城で、それらを結ぶ交通ネットワークは、即ち軍事ネットワークでもあった。
信長は安土と坂本のあいだに快速船を就航させ、坂本から京都に抜ける「志賀越え」の山道を拡張し、安土と京都を一直線に結んだのである。
元亀2年(1571)、信長は比叡山延暦寺を焼討ちすると、最も信頼する家臣の一人である明智光秀を、
京都を扼する西近江の要衝坂本に封じた。光秀は、翌元亀3年(1572)坂本城を築いた。築城に造詣の深い光秀だけに、城は豪壮華麗で、
安土城に次ぐ名城といわれていた。
以後およそ10年間光秀は坂本城を本拠地として活躍した。
その後、光秀は丹波を平定し、天正5年(1577)頃から丹波亀山城を築き、
さらに同7年(1579)頃横山城を攻めたあと、城の大改造を行い、福智山城
(のちに福知山城)と名付けた。
『「別冊歴史読本・織田信長天下布武への道(新人物往来社刊)」、「現地説明板」、「現地光秀石像説明板」より』
現況・登城記・感想等
今では、坂本城の本丸は琵琶湖の湖底に沈んでいるが、以前、真夏の渇水時に姿を現したことがあると聞く。
琵琶湖畔に坂本城址公園があり、坂本城址の石碑と明智光秀の石像が建っている。
湖畔には石垣の石が積まれ、水辺や水の中にも石垣の石が転がっているのが何とも物悲しい感じがする。
公園沿いの国道161号線を北へ行った比叡辻交差点の角にある聖衆来迎寺に表門が移築されている。また、当寺には宇佐山城主森可成
(蘭丸の父)や織田秀信(三法師)の母・寿々の墓もある。
(2007/12/22登城して)
ギャラリー
坂本城址公園と聖衆来迎寺の位置(現地説明板より)
公園入口に建つ「坂本城址」の石碑
公園内に建つ明智光秀の石像
明智光秀の人となりや業績を称える説明板が2つある。
㊧琵琶湖の水辺に転がっている石垣の石、 ㊨水中にも石が
湖畔には石垣の石が積まれ、水辺や水の中にも石垣の石が転がっているのが何とも物悲しい。
㊧移築表門と㊨その門札
公園沿いの国道161号線を北へ1~2kmほど行った比叡辻交差点の角にある聖衆来迎寺に表門が移築されている。
㊧森可成(蘭丸の父)の墓、㊨織田秀信(三法師)の母・寿々の墓