大手口本丸桝形虎口石垣
浅野幸長の従兄弟・忠吉が築城、江戸期は紀伊藩付家老・水野氏10代の居城
別名
丹鶴城・沖見城
所在地
和歌山県新宮市新宮字丹鶴7688-2(丹鶴城公園)
形状
平山城
現状・遺構等
【現状】本丸等主要部は丹鶴城公園、二の丸は市街地に
【遺構等】曲輪、石垣、枡形虎口、模擬大手門と白塀、石碑、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
1997/03/22
2011/02/25
歴史等
丹鶴山付近は平安時代から新宮における要衝の地であった。
関が原の戦の戦功により浅野幸長が和歌山城へ入ると、幸長の従兄弟・忠吉が新宮領を与えられ、慶長6年(1601)和歌山城の支城として、熊野別当の別邸や東仙寺などがあった熊野川沿いの丹鶴山に城を築いた。
元和元年(1615)の一国一城令により取り潰されたが、後に許され元和4年(1618)再び築城に着工した。
翌年完成を見ずに浅野家は安芸広島へ移封され、忠吉もこれに随行し、備後三原3万石を預かる三原城の城代家老となった。
替わって徳川頼宣が和歌山城へ入り、その付け家老・水野重仲が遠江浜松より3万5千石で新宮城に入り築城を再開し、3代重上の時に完成した。
そして、水野氏が10代続き明治に至った。
『「現地説明板」、「日本城郭大系10」他参照』
現況・登城記・感想等
新宮城は、熊野川河口右岸の小高い丘を利用して築かれている。
縄張は、本丸を中心に、南西の鐘の丸、その北西の松の丸が主郭部を形成し、これら主郭部の曲輪の下に二の丸を置いてあったという。
今では、二の丸は市街に埋もれてしまったが、主郭部が丹鶴城公園として整備され、本丸と鐘の丸の打ち込みハギや切り込みハギの綺麗な城壁や虎口の石垣がすこぶる良好に残っている。
本丸や出丸から眺める光景は、眼下には熊野川が流れ、川上方面には熊野の奥深い山々が、一方、川下方面には真っ青な太平洋が広がり、まさに絶景だ。
それと、新宮は食の宝庫で、マグロ・ウニ等の魚介類や熊野牛は勿論美味いが、名物の「めはりずし」や「さんまずし」もなかなかだ(*^_^*)。
(1997/03/22、2011/02/25登城して)
ギャラリー
新宮城主郭部縄張略図(現地説明板より)
新宮城遠景
三重県と和歌山県の県境の熊野川を渡る橋から新宮城址が見えるが、川に突き出た城址の姿は絵になる。ただ、右手前の建物が・・・。左に見える鉄橋はJR紀勢線。
模擬大手門
鐘の丸の南下に無料駐車場に車を停め、公園の南側を通る道を西へ歩いて来ると、城址南西に模擬大手門(冠木門)が建てられている。
大手道②
冠木門から石段をしばらく登ると、右へ急角度に曲がる石段へ出る。
松の丸虎口①
上写真の石段を少し登ると、松の丸へ入る虎口へ出る。
鐘の丸虎口①
松の丸へ入るとすぐ右手に鐘の丸への虎口がある。
本丸西面の石垣
右奥の石垣は本丸にあったという天守閣の天守台石垣。その手前の天守台下の曲輪に建っているはトイレだが、往時も何らかの建物が建っていたのだろう。
本丸への石段
トイレの横に本丸への石段がある。本丸虎口は、通路を何度も折り曲げて二重の虎口を設けている。
本丸枡形虎口へ向かう
上写真の石段を登り、本丸への桝形虎口へ向かう
【本丸にて】
本丸
水の手を見下ろす 虎口脇から本丸を撮影。
丹鶴姫の碑
本丸の北西部に突き出た一画があるが、櫓が建っていたのだろう。そこに、丹鶴姫の碑が立っている。丹鶴姫は、源平時代の武将源為義の娘で、平家の武将が田辺から攻めてきた時に軍を指揮して撃退したのでそれを称えたものだそうだ。
搦手虎口
丹鶴姫の碑の横に搦手虎口があるが、現在、ここからは降りていけないようになっている。
天守跡
本丸の南端に突き出た一画には3層5階の天守閣が建っていたという。ここからは、新宮市街地が眼下に見える。
出丸へ向かう
出丸(写真中央奥)は、本丸の北側に熊野川に向かって突き出ており、本丸北側側面の犬走りのような道を歩いて行く。