因幡 防己尾城(鳥取市)

防己尾城遠景(とっとり休養センターレイク大樹から撮影)

秀吉の鳥取城攻めの際に籠城して秀吉軍を大いに苦しめた城

読み方

つづらおじょう

所在地

鳥取県鳥取市福井、湖山池公園
【アクセス】
県道21号「松原信号」から北へと県道県道190号に入り、900m程北上すると、右手に「湖山池公園」」があるので、右折して300m程東進すると「湖山池公園」駐車場に着く。この公園が城跡。

所要時間

駐車場から本丸跡まで約3分

形状

平山城(比高15m)

現状・遺構等

【現状】 湖山池公園
【遺構等】 曲輪、土塁、堀切、竪堀、石碑、説明板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2012/05/20

歴史等

防己尾城は、天正6年(1578)頃、吉岡将監定勝により築かれたといわれる。
天正9年(1581)、秀吉の鳥取城攻めでは毛利方の吉岡将監定勝父子ならびに弟右近らは、当城に籠城して、しばしば羽柴軍の背後を強襲した。秀吉軍の部将多賀文蔵は、自陣を夜襲され、その旗指物を奪われた事から秀吉に願い出て、当城攻撃をした。
しかし、智勇をもって知られる城主の将監は、巧みに籠城・防戦した。天正9年7月、多賀文蔵は船手を指揮し、秀吉の馬印押し立てて城に攻め上ろうとしたが、城兵の一斉砲撃と槍衾による奇襲で壊走、討ち死にした。この時吉岡定勝の弟・右近は秀吉の千成瓢箪を奪ってしまうほどの功績を残した。吉岡軍の士気は大いに挙がった。
次に、秀吉は亀井茲矩に陸上から攻撃させたが、いたずらに犠牲の数を増やすばかりであった。
そこで、秀吉は茲矩に命じて城を包囲させ糧道を遮断したので、城内はまもなく兵糧が尽き、城兵は四散し、落城したという。
『日本城郭大系14より』

現況・登城記・感想等

防己尾城は、湖山池西岸にあり、池に突き出した半島に築かれている。
規模も小さい上に、比高差もそれほどない。また、周囲も堅固とは決していえない地形で、遺構も明瞭ではなく、城跡といわれなければ気が付かないほどで、とても、秀吉を苦しめた城とは想像だにできないほどだ。
(2012/05/20登城して)

ギャラリー

防己尾城跡絵図 (現地案内板より)
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町屋
町屋跡は、広場や公園駐車場になっている。振り返ってみると入口が狭くなっている。当時は、それなりに強固な防御がされていたのだろう。
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登城口
登城道は、散策路として綺麗に整備されている。
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本丸跡
本丸跡は、かなり広いが、周囲には土塁等もない。中央には立派な石碑が建てられている。
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城址碑
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本丸跡から湖山池の眺望
本丸からの眺望は、良いといえば良いが、木々が邪魔して、それほど・・・?
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二の丸
町屋跡(手前の平坦地)を挟んで、東側の山が二の丸跡で、散策路も整備されているようだが、時間がないのでパス。
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コメント

Kタロウ(2013/08/23)

 こんにちは。はじめまして。以前からときどきこっそり拝見しておりました。
 驚くほどたくさんの城を訪問なさっているんですね。わが地元の大和郡山城に高い評価をつけてくださっててうれしいです。(実家は筒井城や小泉城の近くです)。

 ところで、防己尾城の城主吉岡定勝について調べていたのですが、どうしても分からない点があり、タクジローさまがもしご存知でしたらご教示いただけないかと思いコメントさせていただきました。
 下記URL( http://limestone.blue.coocan.jp/outdoor/iroiro/tessei/tessei1.htm )に、因幡より移ってきた備中岸本城主「吉岡質休、同右近道秀」という名が出てくるのですが、これは吉岡定勝の父と弟のことと考えてよいのでしょうか。
 いろいろ検索してみると、頼山陽の「日本外史」には、吉岡質休が秀吉の馬印を奪った、と書いてあるようです。
 また「陰徳太平記」という書物には、「吉岡入道質休、同嫡子安芸守、二男右近」が羽柴秀吉の諸隊の攻撃を退けた、と記されているそうです。
 wikipediaによると吉岡定勝は安芸守とも呼ばれているということなので、するとこの吉岡質休というのは定勝の父であり、対秀吉戦の大将はこの質休だったということになるのでしょうか? 他のサイトを見ると定勝の父は吉岡春斎入道という名で出て来るので、わけが分からなくなってしまいました。
 研究とかそういうことではないのですが、実は親戚(農家ですが)がこの備中岸本城の近くの出身で、城主の末裔という伝承があるとのことで、個人的な興味で質問させていただきました。もしご面倒でなければご意見を頂戴できれば幸甚です。

タクジロー(2013/08/23)

Kタロウさま
当サイトへのご訪問とコメントを戴きありがとうございます。
吉岡氏のことは、残念ながら、よく知らず、申し訳ありません。
場所的なことを考えれば関連があることは確かなのでしょうね。
逆に、いろいろ教えて戴きありがとうございます。
今度、中国地方へ向かうときには、岸本城跡へも訪れたいと思います。大きな看板が建てられているようなので、地元の方に尋ねると、いろいろ情報が得られるかもしれませんね。
また、これからも時々、当サイトへお寄り下さい。

Kタロウ(2013/08/29)

 ご返答ありがとうございました。
 そうですね、郷土史レベルのことになるでしょうから、やはり現地へ行かなければなかなか分からないのですね。機会があれば岡山や鳥取の方にも行ってみたいです。
 先日は越前大野へ行ったので、お城にも登ってみました。山の上の見晴らしのいいお城で、石垣もかっこよかったです。天守はコンクリの模造品でしたが、町を歩いているといろんなところから家並みの向こうに見えて、あれはあれでいいものだなあと思いました。コンクリ天守でも、戦後作られたようなものはもう歴史の一部ですね。大和郡山にも天守があればなあ、とちょっとだけ思いました。 またいろいろなお城についての記事を読ませていただきたいと思います。ありがとうございました。

タクジロー(2013/09/01)

確かに、越前大野城の模擬天守を、山麓から見上げる姿はなかなかのものですね。
ただ、大和郡山城は、天守台石垣も含めて、今のままでも充分見応えがあるし、元々、有ったかどうかも分からない天守(多分、無かったようです)を、今更、建てる必要はないのではと思いますが如何でしょうか。

Kタロウ(2013/09/02)

 はい。たしかにおっしゃる通りで、客観的に考えるなら、歴史的根拠の無い摸擬天守を建てることは好ましくないと僕も思っています。でも自分の地元ですからね、「やっぱりあったら楽しいだろうなあ」とちょっと思ってしまいます(笑) 
 とはいえ仮に具体的な計画が持ち上がったとしても、賛成するとは限りません。お金もかかるでしょうし、史跡の現状を変更することは好ましくないですし。無くてもいいものだと思います。

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