石見七尾城本丸跡
藤原鎌足を祖とする益田氏400年の居城、関ヶ原合戦後、毛利氏に従い長門国へ
所在地
島根県益田市七尾町
【アクセス】
益田高校を右手(南)に見て、道なりに400mほど北東へ進むと、右手(東側)奥に住吉神社の大鳥居が見えます。ここが登城口で、山腹にある住吉神社経由で登ります。山麓(住吉神社)に駐車場があります。
益田高校益田市七尾町1-17、電話0856-22-0044
(七尾城登城口の住吉神社の大鳥居、背後の山が七尾城)
所要時間
登城口(山麓の住吉神社)から本丸まで約15分、今回は廻り切れず、見学時間は40分でした。
形状
山城(標高約118m)
現状・遺構等
【現状】 山林(七尾公園)
【遺構等】 曲輪、土塁、堀切、畝状竪堀、井戸、石碑、説明板、遺構説明板
満足度
★★★☆☆(但し、廻り切れば★★★★☆と思われる)
訪城日
2013/11/25
歴史等
七尾城は中世400年間にわたり、西石見に勢力を誇った益田氏歴代の居城でした。
益田氏の祖、藤原定通(国兼)は、藤原鎌足の子孫と言われ、平安後期の11世紀頃に石見国司として石見上府(現浜田市)に赴任し、任期終了後も都に帰らず土着しました。
4代兼高は源平合戦で武功をたて、建久3年(1192年)、上府から石見で最も広い平野があり、交通の要衝と港に適した益田に本拠を移し、益田氏を名乗り、翌年七尾城を築きました。
11代兼見は山口の大内氏と結び、石見の豪族たちの指導的立場を確立しました。
その後、大内氏の重臣陶氏と親類関係となった益田氏は、毛利氏や津和野の吉見氏など周辺勢力と対立しましたが、陶晴賢が毛利元就に敗れる と、19代藤兼は毛利軍の一翼として山陰攻略にあたっていた吉川元春を仲介者として毛利氏と和睦しました。
和睦した益田氏は毛利氏に重用され、石見西はもとより出雲、長門、さらには九州まで 領地を獲得しました。
しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で毛利氏が敗れると、20代元祥は、毛利氏に従って長門国須佐に去り、七尾城は廃城となりました。
『「現地説明板2ヶ所」、「益田市観光協会ホームページ」参照』
現況・登城記・感想等
七尾城は、益田市の中心からほど近い比高の低い山なので気楽に登れると思っていたのですが、登城口の住吉神社から中腹の階段を登り始めると、いきなり「熊出没注意」の看板が・・・。おまけに、この看板ときたら、妙に新しいのです。
今までの城跡でも、よくあることと気を取り直して登って行くと、さらに「熊出没注意」の看板が次々に現れ、中腹にある住吉神社に到着すると、境内のあちこちに、またまた「熊出没注意」の看板が・・・( ̄ー ̄;。
それでも、折角、遠くまで出掛けて来たしと思い、勇気を出して城跡である神社の裏山へ登って行ったのですが、本丸周辺と、西尾根曲輪群だけで戻って来ました(/。ヽ)。
そういうわけで、規模が大きいのは分かりましたが、当城跡の見どころ等は、ほとんど見ずに降りて来てしまいました。いつか、2人以上で登城したいものです。
(2013/11/27登城して)
ギャラリー
七尾城縄張略図(現地説明板より)
城は城名の示すとおり、多くの尾根上に築かれた山城で、主に東・西・南の三条の尾根に集中しています。大400あまりの曲輪や敵の侵入を防ぐ堀切や土塁があり、本丸跡の南の曲輪と北東の出丸には、毛利氏の攻撃に備えて築かれたと考えられる畝状竪堀群が残っています。
山麓の水堀
七尾城西麓の住吉神社の南の方には水堀跡があり、現在は七尾公園として整備され、花菖蒲園になっています。
登城口
七尾城西麓の住吉神社の鳥居をくぐって、山腹に鎮座する住吉神社経由で登城します。石段手前には城址碑が立っています。登り始めると、いきなり「熊出没注意」の看板(写真右上)が現れますw(*゚o゚*)w。
住吉神社への石段と「熊出没注意」
「熊出没注意」の看板は、今までの城跡でも、よくあることと気を取り直して登って行くと、さらに「熊出没注意」の看板が次々に現れます( ̄ー ̄;。
住吉神社入口の山門
石段を登り切ると、住吉神社の真っ赤な山門が建っています。
住吉神社
真っ赤な山門をくぐり住吉神社境内に登ると、境内のあちこちに、またまた「熊出没注意」の看板が・・・( ̄ー ̄;
住吉神社は、七尾城の築城とともに上府から移された神社であり、現在の社殿は寛文4年(1664)改築されたものです。
登城道
住吉神社の裏山が七尾城跡です。城跡へは山門をくぐり、Uターンするように登城します。歩き始めると、すぐに「本丸跡」への案内板が立っています。右土塁(尾根)上は西尾根曲輪群です。
竪堀
本丸跡へ向かうと、西尾根に掘られた竪堀が現れます。
厩の段
神社からの登城道を本丸跡へ向かって登り切ると「厩の段」へ出ます。そこを左(写真手前方面)へ向かうと西尾根曲輪群で、右(写真奥)へ向かうと本丸や東尾根曲輪群方面です。
厩の段は、家臣が騎馬で登城し、馬を繋いだ厩(馬屋)のあった所で、南北約56m、東西約15mあります。
馬釣井
厩の段の少し下の方に、石組みの「馬釣井」がありますが、厩と関わりがあるのでしょう。
大手の帯曲輪
厩の段から本丸へ向かうと、西尾根曲輪群と東尾根曲輪群の接合部へ出ます。ここに「七尾城大手の帯曲輪」の説明板が立っています。以下、説明板より、
「この付近から、尾根が西側と東側に分かれ、北向きに谷部が開いています。七尾城の大手は、この谷部と考えられ、谷あいには家臣団の屋敷もあったと推定されます。」
本丸へ
最頂部の本丸へ向かいます。
二の段
登り切ると、東尾根曲輪群の南端の二ノ段跡(写真左やや上)へ出ます。当写真は、本丸跡から二ノ段跡を撮ったものです。
二の段は、本丸より約1m低くなっていますが、七尾城では一番広い場所です。尚、二の段の北側には堀切があるようですが、今回は、東尾根曲輪群は熊が怖くて省略しました(/。ヽ)。
本丸
七尾城の最高部に位置する本丸は、標高約120mで、南側は堀切と土塁で守られ、北側には本丸に接して約1m低い「二の段」があり、この本丸と二の段が七尾城の主郭部です。
本丸南の土塁
本丸南の堀切を見下ろす
本丸南は堀切で断ち切られています。本丸南の土塁上から見下ろすと、その規模が大きいのがよく分かります。この堀切の向こうの曲輪の周囲に畝状竪堀群があるらしいのですが、薄暗くて、如何にも隈が生息していそうで下りて行くのは断念しました(/。ヽ)。
本丸から益田市街を見下ろす
本丸からは益田市街(城下)が一望できます。
西尾根曲輪群へ向かう
本丸跡を早々に立ち去り、西尾根曲輪群へ向かいました。西尾根には大小20以上の曲輪が残っているそうです。写真右土塁上が太鼓の段です。
千畳敷
太鼓の段の北側には千畳敷と呼ばれる広い場所があります。千畳敷は西尾根の中で最も高く、かつ広い曲輪です。防御上、重要な曲輪であり、建物もあったと思われます。
太鼓の段もそうですが、この千畳敷も含めて西尾根曲輪群は、あまり整備がされていません。この後、さらに北の方へ向かいましたが、藪がひどく、勿論、「熊」も気になり下山することにしました(/。ヽ)。
大手門(医光寺総門)
七尾城跡を見学後、医光寺へ向かいました。七尾城の大手門は、現在医光寺の総門として移築され、当時の姿を今に伝える唯一の建造物です。