周防 若山城(周南市、旧新南陽市)

若山城西の丸の石垣

津和野城吉見氏の侵攻に備えて築いた陶氏の本城

所在地

山口県周南市福川

【アクセス】
国道2号線「西の端」信号から100mほど東進すると、左手に「若山城跡」の案内板を始め、若山城に関する多くの石碑や幟があるのですぐ分かると思います(但し、反対側から西進して来ると、中央分離帯があるため右折できないので要注意)。そこからは、山道を道なりに山頂近く(二の丸・三の丸)の駐車場まで登って行ける。

駐車場からの所要時間

駐車場(二の丸跡)から3~4分ほど

形状

山城(標高217m)

現状・遺構等

【現状】 山林(県史跡)
【遺構等】 曲輪、石垣、土塁、空堀、畝状竪堀、堀切、石碑、標柱、説明板(縄張図付きもある)、幟等々

満足度

★★★☆☆

訪城日

2012/11/08

歴史等

陶氏は大内氏の流れをくむ右田氏の祖、摂津守盛長5世の孫弘賢が吉敷郡陶村(現山口市陶)の領主となり陶を氏とした。2代弘政は世の中が南朝・北朝に分裂して混乱状態の中、大内弘世の南朝方に従い、下松の北朝方鷲頭氏(大内家庶流)攻撃に際し、吉敷郡陶(現山口市陶)から下上武井の岡の原に移り、居館(陶氏館)を構え、累代居住した。
文明2年(1470)、陶弘護(ひろもり)は、石見津和野城主吉見氏の侵攻に備えて、若山城を築き、以来、陶氏累代の居城となった(諸説あり)。
そして、天文19年(1550)には、晴賢が主・大内義隆攻撃を前に大修築したという。
翌天文20年(1551)、晴賢はこの城から兵を発して義隆襲撃に成功したが、弘治元年(1555)の厳島合戦で敗れ、晴賢は自刃した。
この時、若山城は晴賢の子長房が守衛していたが、晴賢敗死の報に、山口に残る味方を糾合しようと試みた。
しかし、翌弘治2年(1556)初め、軍勢が若山城へやって来たが、長房方は、味方であると思い、城門を開いたら敵兵であった。晴賢に殺された杉氏の一党が、晴賢敗死の報に、仇討とばかりに攻め寄せたのであった。
そして、若山城は、その要害堅固な防備を生かす間もなく落城し、長房は、城を脱出したが、追撃の前に自刃した。
『「現地説明板」、「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「日本城郭大系14」他より』

現況・登城記・感想等

若山城は、本丸を山頂部に置き、東尾根に二の丸と三の丸、西尾根に西の丸と蔵屋敷を設けた典型的な連郭式山城である。
尾根の両側は断崖をなす天然の地形を利用し、空堀や畝状態竪堀などの人工を加えて要害堅固にした大規模な城郭で、さすが陶氏の本城であり、周防一の山城であるというのもうなずける。
ただ、畝状竪堀などの遺構が、かなり埋まってしまっていて確認しづらい上、二の丸や三の丸は駐車場となり、礎石などの遺構は勿論、痕跡さえ残っていないのは残念です。
ところで、当城の登城にあたって、興味深かったのは、登城口をはじめ、城址のあちこちに「郷土の誇り陶晴賢」を称える看板や幟等が立てられていたことだ。陶晴賢といえば、多くの人にとっては、「歴史上の悪役」「裏切り者」のイメージが強いのではと思うが・・・。確かに、陶晴賢は賢明でなかなかの人物であったらしいし、この土地の人々にとっては郷土の誇りなのでしょう。
そういえば、奈良の筒井城址を訪れた時にも、筒井順慶顕彰会の幟と順慶まつりのポスターを町のあちこちで見かけたし、愛知県の吉良における吉良上野介もそうですね。確かに、歴史というのは「勝者の物語」であり「勝者の歴史」ですからねえ。
(2012/11/08登城して)

ギャラリー

若山城縄張図(現地説明板より)
若山城は、本丸を山頂部に置き、東尾根に二の丸と三の丸、西尾根に西の丸と蔵屋敷設けた典型的な連郭式山城である。
0若山城縄張図

登山口
国道2号線「西の端」信号から100mほど東進すると、左手に「若山城跡」の案内板を始め、若山城に関する多くの石碑や幟などが立っている。ここから、山道を登って行きます(車もOK)。

2若山城への登山口

陶晴賢を称える看板、幟、石碑等々
登山口には陶晴賢を称える石碑や幟等が立ち並んでいる。その数たるや、凄いものです。全国的には「裏切り者」、「悪役」などマイナスイメージが強い「陶晴賢」であるが、ここ地元では、まさに「郷土の誇り」「英雄」である。
3陶氏顕彰碑や幟

二の丸・三の丸跡(駐車場)
登山口から、あちこちに(数10mおきくらいにある)若山城や陶晴賢のことを詠んだ俳句がぶらさがっている山道を道なりに登ってくると、山頂付近の駐車場へ出る。ここは、既に二の丸・三の丸跡で、そこそこの広さはあるが、両者を明確に区画するものはなく、遺構も全く残っていない。
4二の丸と三の丸

本丸への登城道と壇床
二の丸から本丸方向に向かって登って行くと、右手には10段ほどの塁段になった小規模な腰曲輪がある。現地説明板では「壇床」とある。
5登城道

本丸
二の丸跡から5分程登ってくると山頂部の本丸跡へ出る。本丸は、東西約35m、南北20m余。
6本丸跡

本丸跡に立つ城址碑
本丸跡には、石碑、標柱、縄張図付き説明板や祠などがある。
7本丸跡石碑

本丸跡からの眺望
本丸跡からは、瀬戸内海が見渡せる。ちょっと靄っていたのが残念(;>_<;)
8本丸からの光景

畝状竪堀
本丸や壇床の北側には畝状竪堀があるが、ほとんど埋まっていて分かりづらく、その気で見ないと見落としてしまいそう。当然、写真では、ほとんど分からないでしょう。
9畝状竪堀

西の丸石垣
本丸の西側下にある西の丸の入口には高さ2m弱ほどの石垣が積まれている。
10西の丸石垣

西の丸
11西の丸

西の丸の下の曲輪?
西の丸が2段でなっているのか、或いは、別曲輪なのか、西の丸の一段下にも削平地がある。
12西の丸下の曲輪

蔵屋敷
その先は、蔵屋敷跡だが、全くの藪状態で入って行けない。
13蔵屋敷跡

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