筑前 益富城(嘉麻市)

本丸西側の枡形虎口

「筑前六端城」の一つで、後藤又兵衛、次いで毛利太兵衛が入城

別名

大隈城

所在地

福岡県嘉麻市大隈・中益、益富城自然公園
【アクセス】
「大隈」信号を1.5kmほど南東へ進むと、右手に「←益富城自然公園、益富城址、嘉穂プール・テニスコート」の標識が出ているので、そこを左折し、あとは道なりに登って行けば益富城跡へ出る。駐車スペースは10台以上ある。

所要時間

駐車場から二の丸跡まで7分ほど
今回の見学時間は1時間30分ほどでした。

形状

山城(標高187m)

現状・遺構等

【現状】 益富城自然公園
【遺構等】 曲輪、石垣、土塁、空堀、畝状竪堀、虎口、礎石、移築搦手門(*麟翁寺山門)、石碑、説明板
*麟翁寺:嘉麻市大隈町1023、電話0948-57-0207

満足度

★★★★

訪城日

2012/11/14

歴史等

益富城は、永享年間(1430年頃)に、中国地方の有力守護大名であった大内盛見が足利氏の命を受け肥後の菊池氏を攻め功をたて豊前・筑前・肥後3国の領主となり築城したといわれる。
盛見は、大友氏・少弐氏・菊地氏らの反発に遭い、しばしば戦いを繰り返し、永享3年(1431)6月、筑前で少弐氏に敗れ討死した。
その後も、益富城は、豊前・筑前・筑後の真ん中にあるため、その後も争奪戦にさらされ、城主はめまぐるしく代わり、天正年間(1573~92)には秋月種実の支城であった。
天正15年(1587)、九州征伐のために九州入りした豊臣秀吉は、4月1日、島津氏と結んで岩石城(田川郡添田町)を守る秋月軍を僅か1日で攻め落とした。この敗戦を知った秋月種実は、益富城を破却して息子・種長のいる古処山城に退いた。
翌2日夜、古処山城から大隈の方を見た秋月父子は嘉穂一帯が火の海であるのに驚いた。秀吉が村々に命じて、一斉に篝火をたかせて大軍に見せたのである。一夜明けて、種実らは更に肝をつぶした。益富城を眺めると、白亜の塗られた城が建っていたのである。いわゆる「一夜城」である。大隈町民に命じて、戸板などを麓から掻き集めさせ、奉書紙を張って城を修築したように見せかけたもので、秀吉得意の策である。これを知らない秋月父子は、恐れおののき、戦わずして降伏した。秀吉は、協力した大隈町民に対し愛用の陣羽織と佩刀を与え、お墨付きをもって永代貢税を免除したという。
秀吉は、秋月氏を攻略した後、早川主馬首を城番とした。
関ヶ原合戦後の慶長5年(1600)、筑前の太守となって名島城に入った黒田長政は、翌6年から新城「福岡城」に着手した。また同時に国境の守りを固めるため同15年(1610)までの間に、この益富城をはじめ若松城黒崎城、鷹取城、小石原松尾城左右良城の「筑前六端城」を築いた。そして、益富城は後藤又兵衛基次に1万6千石を与えて城主とした。
しかし、慶長11年(1606)、又兵衛は長政との軋轢によって出奔し、同年毛利太兵衛が城主として入ったが、元和元年(1615)の一国一城令によって破却された。
『「日本城郭大系18」、「現地説明板」他参照』

現況・登城記・感想等

益富城は、秀吉の「一夜城伝説」があったり、大坂夏の陣で討死した後藤又兵衛や黒田節で名高い毛利太兵衛が居城した城であり、歴史的な話題に事欠かない城で興味津々での登城だった。
ところが、歴史だけでなく、現存する遺構も見事な状態で残され、3ヶ所の枡形虎口をはじめ、各所に残る石垣等々、見どころも多い。
また、さすがは後藤又兵衛の城であり、他の六端城と較べて規模も大きく、見応え充分だ。
公園化するにあたっても、良好に遺構を維持管理してくれ、案内板等も充実していて有難い。
(2012/11/14登城して)

ギャラリー

益富城縄張図(現地説明板より) ~画面をクリックにて拡大画面に~
益富城は標高187mの山頂に築かれた山城で、主郭部は本丸・二の丸・馬屋からなり、その東側に出丸を設け、両脇を固めるように別曲輪を5ヶ所(総数は十数ヶ所)に配置している。
これらは、東の豊前方面に対する堅固な守りとして築かれている。全体の規模は5万㎡ほどと考えられる。

益富城縄張図

【登城記】
別曲輪①
駐車場に車を停めて、城跡へ向かうとすぐに別曲輪が。駐車場は、既に城域にあったのです。
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別曲輪②
更に進むと、またまた別曲輪が・・・。それもそのはずです、城の東側から北側にかけて別曲輪は十数ヶ所もあるのです。しかも、それらの規模は、別曲輪といえ、かなりの規模です。
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【二の丸付近】
二の丸周辺縄張図(現地説明板より) ~画面をクリックにて拡大画面に~
二の丸周辺の案内板がありましたが、かなり汚れて見辛い上、益富城全体の縄張図と上下が逆になっていて間違えやすい(/。ヽ)。
益富城二の丸周辺図

空堀
山頂方面へ登り始めると、斜面中腹に空堀がある。空堀の上と下は畝状竪堀が掘られている。これは秋月氏時代の遺構です。
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畝状竪堀
畝状竪堀はかなり埋まっており、案内がなければ見落としそうだ。勿論、当写真では分からないでしょう。尚、これも秋月氏時代の遺構です。
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二の丸への虎口
空堀と畝状竪堀を左側に見ながら登って行くと虎口が現れる。右側の土塁は横矢がかかっている。
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二の丸
虎口から二の丸へ入ると、城址碑が建ち、その向こうに搦手の枡形虎口が見える。
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搦手枡形虎口
搦手虎口は連座桝形のようになっているが、比較的良好に残り、枡形を固める石垣もかなり残っている。尚、左奥の桝形虎口の上には櫓が建っていたようだ。
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搦手門と枡形
上写真の枡形虎口を外側から撮ったもので、入口の城門代わりに2基の柱が建っているが、この城門は、山麓の大隈町の麟翁寺の山門として移築現存している。写真右上は櫓跡。
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櫓跡
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横矢A
二の丸の東側2ヶ所には横矢が架かっており、その部分は石垣もよく残っている。ここは、先程二の丸へ登る時に、右上に見た土塁の部分に当たる。
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横矢B
こちらの横矢が掛かっているところには櫓状の建物が建っていたようだ。
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横矢B横の虎口
この横矢Bの脇にも虎口があったようで、その下には曲輪もあったようだ。写真の奥に見えるのは先程見た別曲輪である。
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白米流し跡
全国何十ヶ所にもある白米伝説だが、当城にも「天正15年(1587)の秀吉の秋月氏攻めの際に、白米を流して滝のように見せた」という白米伝説があるという。
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白米流し跡からの眺望
南(古処山)方面が一望のもとに見える。確かに、山麓からはよく見えるでしょうね。
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二の丸全体を
本丸側から二の丸を撮ったものです。土塁は、東側(豊前側)にだけ残っている。対豊前の防御の城であることが徹底してますね。
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【本丸付近】
本丸周辺の縄張図(現地説明板より) ~画面をクリックにて拡大画面に~

この本丸周辺の案内板も、益富城全体の案内板の縄張図と上下が逆になっているので間違えそうです(/。ヽ)。 
益富城本丸周辺図

二の丸と本丸間の櫓跡
本丸と二の丸の間には、2つの曲輪を区画するように細長い櫓(多門櫓?)が建てられていた。この櫓は戦闘と防御のために建てられたもので、他の櫓よりもかなり規模が大きかったようで、後藤又兵衛・毛利太兵衛時代のものです。
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土塁
本丸の両側(北東側と南西側)には土塁が確認できる。
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横矢
両側の土塁の1箇所づつに、横矢がかけられている。
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多聞櫓跡
本丸の東側には多聞櫓台の石垣が残っている。この、石塁は、本丸北西方向まで延びている。本丸の東側の防御が更に徹底している。
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建物跡
本丸の中央には、瓦葺きの本格的な建物が建てられ、礎石も確認されている。
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旗立石
旗を立てる台石と伝わるそうだが、何のためか分かりません!?
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本丸北西側の虎口
本丸側から撮ったもので、ここから左方向へ向かうと城主屋敷跡へ行くようになっていたようだ。
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外側から撮ったもので、城門が建っていたのだろうか。また、右の石垣の方には櫓が建っていたようだ。
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本丸西の石垣
手前の石垣は、本丸北西の枡形虎口の石垣で、奥上は櫓台石垣。
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本丸西の枡形虎口
現場で見ると、なかなか見応えのある光景だが、残念ながら写真だとイマイチかも!? 
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本丸北側と北西部下を取り巻くように築かれた畝状竪堀
秋月氏時代の遺構でしょう。
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馬屋跡
本丸の北側の尾根は塁段状に曲輪が続き、先端部は馬屋だそうだ。
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馬屋の石垣群
馬屋の先端部を固める石垣が良好に残っている。この石垣も秋月氏時代の遺構のようです。
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搦手門(移築現存)
母里太兵衛の墓がある麟翁寺(大隈町)の山門は、益富城の搦手門で、元和元年の一国一城令で益富城が廃城となった際に麟翁寺に移築されたという。
益富城搦手門

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