筑後 久留米城(久留米市)

本丸の高石垣

赤松則村の後裔・有馬氏21万石の居城

別名

笹原城、篠山城、篠原城、久留目城、来目城、雨城

所在地

福岡県久留米市篠原町

形状

平山城(比高約15m)

現状・遺構等

【現状】篠山神社、有馬記念館
【遺構等】石垣、堀、曲輪、井戸、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2007/02/10

歴史等

久留米城は永正年間(1504~21)に筑後川ぞいの小高い山に築かれた平山城が始まりとされる。戦国時代より、土豪・豪族の間に、この古城をめぐって興亡の繰り返しがあった。高良山勢力の出城であったらしく天正11年(1583)から3年間、高良山座主麟圭はこの城に籠り、豊後大友氏と戦っている。
天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州国割により、久留米城には毛利秀包が入城する。毛利秀包は、毛利元就の末子で、兄・小早川隆景の養子となったので、小早川秀包と呼ばれることもある。しかし、関が原の戦で西方についたため領地を没収されてしまう。
代わって三河岡崎城の田中吉政が、関ヶ原の戦での功(岐阜城攻め、さらに関ヶ原当日の主力決戦に功を挙げたばかりか、三成の本城佐和山城を攻略、さらに部下たちが三成を生け捕るなど)により、筑後一国32万石の領主として柳川城へ入った。このとき、筑後北部の支配の拠点であるこの久留米城には次男・則政(吉信)を、筑後福島城(八女市)には三男・康政を置いた。則政の死後は、家老の坂本和泉守が城代となったが、後に元和元年(1615)の一国一城令で久留米城は廃城となった。
柳川藩の二代目・忠政(吉政の四男)が嗣子がないまま元和6年(1620)死去し、田中氏は断絶してしまう。
筑後国は再び分割され、立花宗茂が柳川藩12万石に復活、立花種次が三池藩1万石、そして丹波国福知山城の有馬豊氏が筑後北半21万石の大名として久留米城に入城した。有馬氏は、赤松則村の後裔で、摂津有馬郡有馬荘(神戸市北区有馬町)を発祥の地としている。入国した有馬豊氏は、約40年かけて、廃城となっていた久留米城の大改修を行い、本丸・二の丸・三の丸・外郭に濠を廻す連郭式城郭を建設している。その後、久留米は幕末まで有馬家の城下町として栄える。
『「現地説明板」、「サイト・筑紫のしろのき」、「サイト・ 風雲戦国史・田中氏」等参照』

現況・登城記・感想等

久留米城は久留米市街の北西に位置し、筑後川が東から南へと大きく蛇行し宝満川と合流する左岸地点にある比高15mほどの丘の上に本丸を築き、その南側に二の丸、三の丸、外郭(四の丸)が配された壮大な連郭式平山城であった。
本丸の規模は東西約96.4m、南北約156.4mで、石垣の高さは約14m~15mで、天守はなく、中央に本丸御殿、それを取り囲むように二重の多聞櫓で連結された巽櫓、艮櫓、乾櫓、坤櫓、西下櫓、太鼓櫓、月見櫓の三重櫓が各隅に7棟配されていたという。
今では本丸部分が残っているだけで、本丸跡には有馬記念館と篠山神社が建てられ、二の丸・三ノ丸はブリヂストン久留米工場の敷地となり、外郭は市街地となっている。
というわけで、久留米城の見所は、 壮大な高石垣と二ヶ所の虎口、そして城址から眺める筑後川の光景だけかもしれない。

さて、蜜柑曲輪といわれる腰曲輪跡の駐車場に車を停めて登城したが、その駐車場(蜜柑曲輪跡)から眺める高石垣と搦手口へ登る石段の感じが非常に気に入り、大いに期待して表門の方へ向かった。
ところが、表門の方へ廻ると自転車まで捨てられているゴミだらけの水堀に出逢ってしまい興醒めてしまった。
とはいえ、表門(冠木御門跡)の両側の高石垣と表門枡形はなかなかのものである。本丸跡にある有馬家記念館の管理人の方によると、 築城にあたっては加藤氏(熊本)や黒田氏など築城の名手に援助を受けたとのことで、さすがに立派なものである。
本丸跡は有馬豊氏を祀る篠山神社や有馬家資料などを展示した有馬記念館等があるが、だだっ広いだけといった感じである。
しかし、本丸隅にある明治維新時の犠牲者を祀る石碑が建ち並ぶ太鼓櫓跡や有馬家資料館の裏から筑後川を望むと、 筑後川を天然の堀とした往時の情景が見えてくるような気がする。
尚、本丸跡には、やたらといろんな石碑が建っているのが不思議な感じがした!?
(2007/02/10登城して)

ギャラリー

久留米城の図 ~クリックにて拡大画面に~
久留米城は久留米市街の北西に位置し、筑後川が東から南へと大きく蛇行し宝満川と合流する左岸地点にある比高15mほどの丘の上に本丸を築き、その南側に二の丸、三の丸、外郭(四の丸)が配された壮大な連郭式平山城であった。
今では本丸部分が残っているだけで、本丸跡には有馬記念館と篠山神社が建てられ、二の丸・三ノ丸はブリヂストン久留米工場の敷地となり、外郭は市街地となっている。
久留米城縄張図

久留米城本丸絵図
本丸の規模は東西約96.4m、南北約156.4mで、石垣の高さは約14m~15mで、天守はなく、中央に本丸御殿、それを取り囲むように二重の多聞櫓で連結された巽櫓、艮櫓、乾櫓、坤櫓、西下櫓、太鼓櫓、月見櫓の三重櫓が各隅に7棟配されていたという。
尚、本丸南東隅(辰巳の方角)に上げられていた層塔型の三重櫓の巽櫓が、城内で最も規模が大きかったため、天守の代用となっていた。
久留米城本丸絵図

蜜柑曲輪跡
蜜柑曲輪といわれる腰曲輪跡の駐車場に車を停めて登城したが、その駐車場(蜜柑曲輪跡)から眺める高石垣と搦手口へ登る石段の感じが非常に気に入り、大いに期待して表門の方へ廻った。松の木でほとんど隠れてしまっているが、写真右の石垣上が月見櫓跡。
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搦手口への石段
右は月見櫓台石垣。
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冠木御門跡(表門桝形)
本丸の大手虎口にあった桝形門で、内桝形虎口をなしており、土橋を渡って南正面に桝形門形式で言うところの「二の門」である冠木門(平門)、西に一の門である櫓門が開かれているて、本丸内へは、ほぼ90度左へ曲がって入って行くことになる。
現在は冠木門土塀石垣と櫓門櫓台石垣が現存しているが、門礎石などは敷地内にある有馬会館などへの自動車の乗り入れのため、車道としてアスファルト舗装されているため確認できない状態となっている。
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冠木御門両側の高石垣と内堀
本丸跡にある有馬家記念館の管理人の方によると、 築城にあたっては加藤氏(熊本)や黒田氏など築城の名手に援助を受けたとのことで、さすがに立派なものである。
左(西)側の高石垣と内堀
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右(東)側の高石垣と内堀
高石垣の上の石垣は天守の代用としていた巽櫓の石垣。
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篠山神社
本丸中央の御殿跡には篠山神社が鎮座している。明治10年(1877)、旧久留米藩士民が、有馬豊氏・頼永の偉業を偲んで祀り、2年後久留米城本丸跡に篠山神社として鎮座した。
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小早川神社
篠山神社境内には旧久留米城主の毛利(小早川)秀包を祭神とする小さな神社も祀られている。秀包は妻(豊後のキリシタン大名大友宗麟の七女)と共に熱心なキリシタンであったので、この神社の扉にはアンドレアス十字が刻まれている。
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井戸
久留米城本丸には3つの井戸があり、現在も2つの井戸跡が残っている。
大井戸
本丸北西部にある、この大井戸は、硬い岩盤をくり抜いて築かれている。
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有馬家資料館の前の井戸
本丸のお台所の側(南西部)にある井戸。
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巽櫓台
久留米城には天守は建てられなかったが、本丸周囲を二重の多聞櫓で連結された高い白土の城壁にそびえたつ二層と三層の7つの櫓があり、本丸南東隅(辰巳の方角)に上げられていた層塔型の三重櫓の巽櫓は城内で最も規模が大きく、壮大な偉容を誇っていて天守の代用となっていた。当写真は本丸内から撮ったもの。DSC06498

当写真は本丸南側の内堀越しに高石垣とその上の巽櫓台の石垣を撮ったものですが、高石垣下の堀がゴミだらけで、自転車まで捨てられていたのは興醒めであった。
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太鼓櫓跡
現在は様々な石碑が建っているが、冠木御門の西(本丸南)の太鼓櫓跡には、三重櫓が建っていた。
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【本丸跡から筑後川を望む】
本丸跡から筑後川を望むと、筑後川を天然の堀とした往時の情景が見えてくるような気がする?
太鼓櫓跡から
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坤櫓跡(有馬記念館裏)から
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【久留米城本丸全景】 (南西部から撮影)
本丸南西部からの見る、この久留米城跡全景が一番の写真スポットだろうと思います。
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