肥前 直谷城(佐世保市)

直谷城址二の木戸跡

松浦党を代表する在地領主・志佐氏460余年の居城

読み方

なおやじょう

所在地

長崎県佐世保市吉井町直谷
吉井北小学校の西の山が城跡。小学校校庭の南西に駐車場有り。
吉井北小学校:佐世保市吉井町直谷1030、電話0956-64-2054

所要時間

駐車場から一の郭まで約15分

形状

山城

現状・遺構等

【現状】 山林(県指定史跡)
【遺構等】 曲輪、天守台、物見台、土塁、石積み、畝状空堀、竪堀、堀切、井戸、木戸、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2011/11/11

歴史等

直谷城は、平安時代の末期より徳川の初期に至るまで460余年の間、松浦党を代表する在地領主・志佐氏の居城である。
伝説では「壇ノ浦の戦い」で入水自殺したといわれる安徳天皇が実は生きていて直谷城を仮の住まいとしたという言い伝えがあり、そのため、城のある山を「内裏山(ないりやま)」と呼ぶようになったという。
一説では鎌倉時代(13世紀中期)松浦氏の祖、松浦久の孫清の次男貞が築いたともいわれている。
志佐氏は日本及び朝鮮の中世文書に名が登場し、7代・重(かさね)と8代・義(よろし)の時代(1400年代)には、東シナ海を舞台に、朝鮮国や琉球国との海上交易を活発に行っていた。
所領は志佐を本拠としたが、戦国時代に志佐の陣の内城から直谷城へ本拠地移動があったと考えられている。戦国期、龍造寺・大村連合軍や松浦隆信(平戸松浦氏)に攻められ、ここに長く立て籠もって戦っていたと考えられる。
最終的に、この地の覇権は戦国大名となった松浦隆信に移った。その後、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となった。
『「現地説明板」、「佐世保戦国.com」他参照』

現況・登城記・感想等

直谷城は、山頂部に主郭部(一ノ郭、二ノ郭)を置き、その周囲の大部分は切り立った崖によって囲まれた要害堅固な城である。
唯一、緩やかな坂になっている大手筋には、四重の土塁と空堀群や一の木戸、二の木戸を設けて防御を固めている。
一ノ郭の広さは、東西約50m、南北約40mで、その西側には物見台を兼ねた天守台、東側には東物見台がある。
また、西物見台、武者溜り、矢石置き場、搦手口、竪堀などが設けられ、これらの遺構も良好に残っている。
登城前には、それほど期待していなかっただけに、随分、得をした気分になりました(*^_^*)。
(2012/11/11登城して)

ギャラリー

直谷城鳥瞰図(現地案内板より)
直谷城鳥瞰図

【登城記】
大手道
登城道はよく整備されているが、昨夜来の雨で、鬱蒼として、湿っぽい山道を入って行くのは、勿論、私だけ。九州には熊はいないとはいいながら、一昨日は、獅子ケ城(唐津市)でイノシシを見たばかりなので、少しばかり気味悪い( ̄ー ̄;。
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土塁と空堀
歩き始めて5~6分ほどで、前方両側に土塁と空堀が見えてくる。
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畝状空堀・土塁
そのまま進んで行くと、何と、その空堀と土塁は、幾重にもなっている。数えてみると、土塁は4重、空堀は3筋あるw(*゚o゚*)w。入城して間もなく、これほどの遺構に出逢えて嬉しくなってくる(*^_^*)。
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一の土塁&一の空堀
防御上から当然でしょうが、その中で、一番奥の土塁(一の土塁)と空堀(一の空堀)は、規模も大きく、土塁は高く、空堀は深い。
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一の土塁上から畝状空堀と土塁を
畝状空堀と土塁がすっかり気に入り、一の土塁上から振り返って、またまた写真を(*^_^*)。
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武者溜り
大手道をさらに登って行くと、左手奥に武者溜りがある。
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井戸跡
大手道沿いには、
さすがにほとんど埋まってはいるが石組みの井戸跡が残っている。直径4m近くある大きなものだ。
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二の木戸跡の土塁と石段
さらに大手道を進んで行くと、前方に一段と高い土塁が見えてくる。二の木戸跡である。石段もある。
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二の木戸跡
二の木戸跡の両側の土塁は石積みで固められている。写真中央奥に見えるのは、先程の井戸跡。
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二の木戸跡
二の木戸跡から、さらに登って行くと、道は二手に分かれ、右は一の木戸跡を通り一ノ郭へ、左は搦手門へ向かう。
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一の郭へ
まずは、一ノ郭へ・・・。一の郭入口には、城址碑と説明板が立っている。

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一の郭天守台
一の郭入口すぐ左には物見台を兼ねた天守郭と呼ばれる高台がある。ここには、城を象徴する建物が建っていたようだ。
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一の郭
天守台へ登る途中から一の郭を撮った写真です。一の郭の広さは、東西約50m、南北約40mで、右奥(東)には東物見台が見える。
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東物見台
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姫落としの断崖
一の郭の北東突端は、高さ約28mの断崖絶壁になっており、戦の時に、幼い姫を吊り降ろして逃がそうとして失敗したと伝えられているという。
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二の郭
天守台の西には、二の郭が設けられている。
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西物見台と堀切
二の郭の西には西物見台があり、その間は深い堀切で断ち切られている。この小さい写真では分かり辛いかもしれないが、絶壁になった堀切は、物見台側の岩(写真中央)と相俟って、迫力満点dす。
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土塁
二の郭の南西下から搦手にかけて土塁があり、その上は一騎駆けのような道になっている。この土塁も防御のための施設でしょう。
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搦手を固める土塁(岩)
搦手に下りて、搦手門へ向かうと、両側が岩の虎口へ出た。砂嘴世、ここが搦手虎口かと思ったら、左手の案内板には「武者走り」となっていた。土塁(岩)手前側の狭い削平地が武者走りでしょうか?
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搦手門跡
搦手門跡は、片側は絶壁の岩、片側は断崖絶壁の谷という場所にある。
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竪堀
搦手門へ向かう途中には、竪堀が設けられていたようだが、ほとんど埋まってしまっているのと、藪のため、全く確認できなかった(/。ヽ)。
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コメント

子孫かも(匿名)(2016/12/12)

昔よく聞かされてはいたんですけど、でも途中で途切れてしまい(城主)本当に子孫なのか良くわかりません。繋がることを祈って(ルーツを調べてます)どこまでわかるかの、挑戦です。よろしくお願いします。

タクジロー(2016/12/14)

子孫かも様
当サイトへのご訪問とコメントをありがとうございます。
直谷城は規模も大きく、また遺構もよくのこる素晴らしい城址でした。
ルーツが判明するといいですね。
また、調査の様子をお教え戴けると嬉しいです。
今後とも宜しくお願い致します。

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