長岩城の東之台から本丸まで延びる登り石垣
豊前の名門野仲氏の全長700mに及ぶ石塁が張り巡らされた城砦
読み方
ながいわじょう
所在地
大分県中津市耶馬渓町川原口
【アクセス】
国道212号から西へと県道2号に入り、「津民大橋」で山国川を渡ります。永岩小学校に向かって、9kmほど県道2号を進むと「長岩城跡」の看板や幟が立っているのですぐ分かると思います。車はこの付近の余白に停めました。
永岩小学校耶馬溪町川原口782番地2、電話0979-54-2312
(案内板や幟が出迎えてくれる長岩城の登城口)
所要時間
駐車場所から本丸跡まで約35分、今回の見学時間は2時間40分ほどでした。
形状
山城(標高531m、比高230m)
現状・遺構等
【現状】 山林(県指定史跡)
【遺構等】 曲輪、石塁、石垣、石積櫓、石積砲座、竪堀、堀切、石碑、説明板、遺構案内板
満足度
★★★★★
訪城日
2013/11/27
歴史等
建久年間(1190~98)に鎌倉幕府から豊前国守護職として任命された宇都宮信房は弟重房に下毛郡野仲郷を分与した。
重房は姓を「野仲」と改め建久9年(1198)に長岩城を築城した。以後、野仲氏22代、390年間の居城となった。
野仲氏は次第に勢力を拡大し、下毛郡の政治軍事を掌握して下毛郡の統治者として栄え、全盛時代の所領支配は、宇佐郡、下毛郡の一部にまで拡大した。その間、「元寇の役」や、「玖珠城の戦」等で下毛郡の勇者として強豪振りを発揮した。室町時代になると、野仲氏は豊前守護となった大内氏に臣従して下毛郡代となった。
その後、大内義隆が重臣陶隆房によって殺された後に大友義鎮(宗麟)の弟義長が大内氏の養子となり家督を相続したため、豊前の諸氏は大友氏に従った。
大内氏が毛利元就に滅ぼされると、野仲鎮兼は大友氏に反旗を翻して長岩城に籠城したが、大友義鎮に攻められ降伏した。
大友義鎮が「耳川の合戦」で島津氏に敗れた後、豊前の諸氏は大友氏を離脱し、天正7年(1579)に野仲鎮兼は、軍を発し下毛郡を制圧した。
天正16年(1588)、野仲鎮兼は中津城主となった黒田如水・長政父子に従わなかったため、後藤又兵衛を先陣とする黒田長政の精兵3,500騎の大軍に攻められ、長岩軍は、難攻不落を誇った堅城に楯籠もり城主野仲鎮兼以下一族郎党700余、合せ総勢1,500余で守ったが、3昼夜に及ぶ攻勢により遂に落城し、豊前の名門野仲氏も滅亡し、長岩城も廃城となった。
『「現地説明板」、「パンフレット」「日本城郭大系」等参照』
現況・登城記・感想等
長岩城跡は、「青の洞門」で有名な「耶馬溪」の、さらに奥にある城跡で、いろんな情報や写真を見て、是非、登城したかった城跡です。
この城跡の特徴は、何と言っても山中に張り巡らされた石塁でしょう。一之城戸、二之城戸、三之城戸、東之台から本丸へ延びる登り石垣等々、20余ヶ所、全長700mにも及ぶ石塁は、まるで万里の長城のようで、とても一地方豪族の城とは思えません。
そして各所に設けられた大規模な竪堀も凄いです。
しかし、何よりも驚くのは、幅1mほどしかない上、両側下は100mはあろうかという断崖絶壁の痩せ尾根が長~く延び、その上に石積櫓や石積みの弓型砲座が築かれていることです。
石積櫓を見るために、その痩せ尾根を歩いて行きましたが、足がすくむどころか、腰が抜けそうでした( ̄ー ̄;。
弓型砲座の方の痩せ尾根は、さらに危険なようなので断念しました(/。ヽ)。
長岩城跡は、見どころも多く、見応え充分な城跡であるばかりでなく、命懸けの登城で、過去に登った中でも最も印象大です(苦笑)。
(2013/11/27登城して)
ギャラリー
長岩城案内図(現地案内板より)
長岩城鳥瞰図(余湖くんのお城のページより)
現地登城口の案内板を参考に登城しましたが、石積櫓や弓形砲座が築かれた痩せ尾根等々、臨場感がないので、余湖さんの描いた鳥瞰図を承諾を得た上で掲載しました。
長岩城は、鳥瞰図で分かるように、本丸のある西側の山と痩せ尾根のある東側の山に分かれます。
【登城記】
山麓の城址碑と背後に長岩城跡
幟や大きな案内板が立つ登城口に車を停め、城跡の手前を流れる川へ下りて行くと、いきなり獣避けの柵があり、その内側に「長岩城跡」と刻まれた立派な石碑が建てられています。その背後にそびえる2つの山が長岩城跡です。写真右が本丸のある山で、左側が痩せ尾根がある山です。
津民川に架かる橋と手前に記帳所
長岩城の北麓には、津民川が流れています。津民川に架かる橋の手前には記帳所があり、有難いことに、そこには立派なパンフレットまで用意されています。橋の入口には、またまた、獣避けのネットが張られていますw(*゚o゚*)w。
いよいよ登城です
橋を渡り、山に沿って歩いて行くと、早速、山裾に石垣らしき岩が現れました。これは、山麓の居館の基底部の石垣のようです。そして、またまた獣避けの柵が設けられていますw(*゚o゚*)w。今までにも、獣避けの柵が設けられた城跡は数多くありましたが、3ヶ所にも設置されているのは初めてです(苦笑)。
一ノ城戸
柵を開けて入城すると、左手下に一ノ城戸があります。元々は、こちらが本来の登城口のようです。早速、石塁が見られて感激です。
一ノ城戸は、ながらくその所在が分からなかったが、近年、この場所で根石が発見され、それを元に付近に散乱していた石で復元したのだそうです。
居館石垣①
一ノ城戸から登って行くと、右手にしっかりと積まれた石垣が続きます。
居館石垣②
石段を登ってみると、塁段になった平場があります。居館跡でしょう。
二ノ城戸
さらに登って行くと、峡谷両側に石塁が見えて来ます。二ノ城戸です。
二ノ城戸西側の石塁(登り石垣)
二ノ城戸の西側の石塁は、登り石垣になっており、実にかっこいいです。ここで、またまた大感激です(*^_^*)。
二ノ城戸東側の石塁
東側の石塁もしっかりとした積み方です。登城道は、ここで峡谷の東側へ渡ります。
登城道
峡谷沿い、或いは峡谷の岩の間を通って進みます
三ノ城戸
再度、峡谷の西側へ渡り、登って行くと三ノ城戸の石塁が現れます。
三ノ城戸西側の石塁(登り石垣)
三ノ城戸の西側の石塁(登り石垣)は、二ノ城戸よりもさらに山上へ長く延びており、65mもあるそうで、見応え満点で、感激・感激の一言ですw(*゚o゚*)w。
三ノ城戸東側の石塁(砲座)
三ノ城戸の東側の石塁も、山上へ延びていますが、ここには砲座もあります。
本丸へ向かう
三ノ城戸から本丸へは西側の石塁に沿って登って行きますが、倒木も多く、かなりの悪路です。途中、西之台と本丸への分岐点(左やや上)へ出ますが、まずは本丸へ向かいます。
左上に石垣が
本丸目指して、しばらく登って行くと、左上に石垣が見えて来ます。
東之台
左上に石垣を見ながら登って行き、石垣の先端部を左へ廻りこむように入ると東之台へ出ます。東之台は、侍たちが行動するため集結・待機したところで、出城跡ではないかと思われるとのことです。写真左の土塁は、登って来る時に左上に見えた石塁です。
東之台から山頂の本丸まで延びる石塁(登り石垣)
この東之台から山頂の本丸まで100m以上延びる登り石垣は圧巻です。石塁は、20余ヶ所、全長700mにも及び、まるで万里の長城のようで、とても一地方豪族の城とは思えません。
竪堀
石塁だけでなく、石塁両側には大規模な竪堀も掘られています。
砲座?
石塁の中央辺りには、砲座のような石積みも見られます。ここには、4~5人の人が待機できそうです。
石塁脇の竪堀を登って本丸へ・・・
さらに、石塁脇の竪堀を登って本丸へ向かいます。今回は、H氏との登城です。
本丸下の虎口(城門跡)①
石塁脇の竪堀を登って行くと、山頂部の本丸への虎口(城門跡)へ出ます。
本丸下の虎口(城門跡)②
虎口両側の石垣は、片方はちょっとした櫓が建てられるほどの石組みです。また、片方はL字形をした石組みで、外枡形のようになっています。これまた、かっこいいですね。
本丸跡
本丸はそれほど広くはないが、腰曲輪も含め、周囲を何段もの石垣で固められ、虎口の跡もはっきりと分かります。
本丸礎石
本丸には礎石が残っています。
堀切
本丸から西之台へ向かう尾根には二重の堀切が断ち切っています。
西之台への通路の石垣
堀切を渡り、西之台へ向かう通路の両側には石垣が設けられている。
西之台
西之台は非常に狭いスペースしかありません。片側には石垣が設けられています。
西之台の石垣と堀切
西之台の石垣の裏側は、二重堀切で断ち切られています。
二重堀切
西之台裏側の二重堀切です。一番奥の土塁上が西之台です。
竪堀
結構急傾斜な竪堀を下りて行きます。
出水場所
竪堀を下りて行くと、出水場所があります。
陣屋前面の石塁
一旦、三ノ城戸まで戻り、今度は、峡谷の反対側の東側の山へ向かいます。しばらく登って行くと正面上に陣屋と称される曲輪前面の長~い石塁が見えてきますが、この城では当たり前のもので、もう驚きません(笑)。
陣屋への虎口
陣屋への虎口には石段が設けられています。陣屋といっても、いわゆる江戸期の陣屋とは違い、作戦を練ったりする参謀本部だそうです。尚、写真の右の方へ向かうと「砲座」があるのですが、見落としてしまいました(;>_<;)。
坂道を登って行きます
陣屋から、急斜面の坂を登って行くと、周りは強烈な高い崖に囲まれてきます。
長~いハシゴ
周囲は、すべて高い崖で囲まれたところに、長さ10m以上もあろうかという金属製のハシゴがかけられています。このハシゴを登って行きます。
急崖の細い道、そして壊れたハシゴw(*゚o゚*)w
ハシゴをよじ登り、いよいよ、私が何よりも見たかった痩せ尾根に築かれた「石積み櫓」へ向かいます。ところが、道を間違えて片側急崖の細い道を歩いて行ったら、今度は木製のハシゴが垂直になって架かっていました。おまけに、このハシゴときたら壊れています( ̄ー ̄;。
「まさか、このハシゴを登っていかないと石積み櫓へは到着しないのだろうか?」と思いましたが、あまりにも危険で、とても登っていけるような代物ではありません(;´▽`A``。これは、ロッククライミングでもやる人用に、かつて架けられたものでしょうかねえ??(苦笑)。
痩せ尾根へ下りるハシゴと痩せ尾根
再度、梯子の上に戻り、崖下の別の細い道を伝って行くと、今度は、下へ下りる5mほどの金属製のハシゴが垂直に架かっていました。
ハシゴを下りたところが「石積み櫓」へ向かう痩せ尾根の上です。「石積み櫓」を見るためには、そこから、幅1mほどの下り傾斜の痩せ尾根の上を歩いて行かなければならないのですが、尾根の側面部は高さ100m以上はあろうかという断崖絶壁で、うっかり足を滑らせでもしようものなら一巻の終わりです( ̄ー ̄;。おまけに尾根の上は、ゴツゴツした岩で、つまづきそうです。
右手に見えた断崖絶壁
右手遠くには垂直に切り立った断崖絶壁の岩壁が見えます。今、自分がいる尾根の両側下も同じような状態なのだろうと想像すると、足がすくむどころか、腰が抜けそうです( ̄ー ̄;。しかし、石積み櫓を見るためには、歩いて行くしかありません。
石積み櫓が・・・
それでも、「石積み櫓」を見たいがために、恐々30mほど歩いて行くと、石積み櫓が、こぶ状の岩の上に見えて来ました。
さて、石積み櫓の写真を撮るためには、高さ4mほどのこぶ状の岩を登って行かなければなりません。
石積み櫓内部
何とか、石積み櫓へよじ登りました。ホッ!! しかし、石積み櫓を正面から撮るには、石積みの外側を廻って行かなければなりません( ̄ー ̄;。ところが、この石積み櫓の周りは幅20~30cmほどしかありません。勿論、その下は断崖絶壁です(/。ヽ)。
ところで、櫓に施されている3ヶ所の穴は「銃眼」との説があるが、真意は不明とのことです。
石積み櫓
何とか石積み櫓の左側から廻りこみ、左手を伸ばして何とか写真を撮りました。命がけで撮った写真です。100万円でも譲りません。勿論、こんな写真を100万円で買おうなどという人はいないでしょうがネ(苦笑)。
ところが、あとで分かったのですが、写真右下にデジカメの紐が写っていました(;>_<;)。普段は、念のためにと2~3枚撮ったりするんですが、あまりの恐怖で1枚撮るのがやっとでした(/。ヽ)。
石積み櫓の向こう側の痩せ尾根
本当は、石積み櫓の向こう側の尾根へ下りて撮りたいところですが、幅が狭いだけでなく、15度ほどの下り傾斜です。とても下りて行く勇気はありませんでした(/。ヽ)。
さあ、あとは戻るだけですが、写真を撮ってほっとしたせいか、益々恐怖心が湧いてきて這うように戻りました(苦笑)
弓型砲座への痩せ尾根
実は、さらに別の尾根があり、その尾根の遥か先には「弓型砲座」というのがあるらしいのですが、ここへ登って来る途中に見た「案内板」に、ここから進む尾根道だけが危険箇所となっていました。ということは、今、行って来た尾根道は危険箇所ではないというわけ?などと考えたら、とても行く勇気は起きず、ここで断念しました(/。ヽ)。「それにしても、こんな場所に石積み櫓(銃眼付きです)や砲座を造る必要があったのだろうか?」「こんな尾根の上を攻めてくることなんて有り得ないだろう。」などと考えながら下山しました(苦笑)。いやあ!まさに命がけの攻城でした(苦笑)。