一宇治城全景
南北朝期に島津一族で唯一南朝方で戦った伊集院氏の城、一時、島津氏本城にも
読み方
いちうじじょう
別名
伊集院城、鉄山城
所在地
鹿児島県日置市伊集院町大田、城山公園
【アクセス】
JR鹿児島本線「伊集院駅」の西約700m。伊集院駅南口から800m程南西に進んで右折し、150m程北西に進んで右折する。道なりに700m程上がって行くと城山公園の駐車場に着く。伊集院町に入ると、かなり案内板が立っているので、すぐ分かると思います。
形状
山城(標高144m)
現状・遺構等
【現状】 城山公園
【遺構等】 曲輪、空堀、土塁、石積み、井戸、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2012/11/16
歴史等
一宇治城は、建久の頃(1190~98)、郡司として着任した紀四郎時清が城を築いて、4代130年程居住した。これを「古伊集院家」という。
4代時忠で血統が絶え、島津家の一族伊集院久兼(久親)が城主となり新しい伊集院家となった。
久親・忠親父子は、2度にわたる元寇(1274年の文永の役、1281年の弘安の役)の際に博多に出陣し、神風の力も得て撃退することができた。この神恩に報いて城内に「神明神社」を勧請した。
伊集院氏は4代長門守忠国の頃勢力も強大となり文教も栄えた。南北朝の長い戦乱が始まると、忠国は、島津一族ではただ一人南朝に味方し、北朝方についた守護島津氏と敵対し、薩隅に転戦した。
その後、伊集院一族は素晴らしく発展をとげたが、忠国の曾孫凞久(ひろひさ)の代の宝暦2年(1450)3月、岳父の島津氏9代忠国に攻囲されて逃亡、一宇治城は落城した。
さらにのち、天文の初めには、薩州家島津実久が攻略して部将町田久用に守らせたが、天文5年(1536)3月、島津忠良・貴久父子が、兵1千をもってこれを攻略して鹿児島進攻の拠点とした。
そして、天文14年(1545)、貴久は当城を三州(薩摩、大隅、日向)守護職の居城と定め、薩隅平定の本拠としたが、同19年(1550)12月には鹿児島の内城へ移り、後は地頭の支配となった。
尚、同18年(1549)には、ザビエルが当城で貴久に謁見し、日本で初めてキリスト教布教の許可を得たという(別の説もある)。
『「現地説明板」、「日本城郭大系18」他より』
現況・登城記・感想等
一宇治城は、城山公園になり、市民の憩いの広場と化しているが、幸いなことに、公園化にあたっても、かつての曲輪を基調として整備され、それなりに遺構が残されているのが有難い。
城の縄張りは、空堀によって区切られた独立性の高い曲輪群(神明城、伊作城、南之城、中之城、釣瓶城等)により一つの城郭が形成されているという南九州特有のものである。
城のすぐ下まで、車で登って行けることもあり、それほど高い山と思わなかったが、山頂部にある神明城(本丸でしょう)から見下ろす伊集院の町並みとその向こうに見える桜島の眺望が素晴らしい。
ただ、あまりにも綺麗に整備されていて、中世の山城の風情が感じられず、いつも山の中をほっつき歩いている身としては、どうも居心地が悪い(苦笑)。
また、時間が足りなかったこともあり、残念ながら、南之城と釣瓶城は省略しました。
(2012/11/16登城して)
ギャラリー
一宇治城(城山公園)案内図 ~現地案内板より~
一宇治城は、空堀によって区切られた独立性の高い、多くの曲輪(城と呼ぶ)があり、現在でも、多くの平坦地が残っているが、名前は分かっていても、どれに比定するか不明な曲輪が多いという。
さあ、登城!
城跡の東側下の広い駐車場に車を置いて、さあ、登城です。綺麗に整備された石段を一直線に登って中之城(中平城)へ向かいます。この辺りの平坦地は、日本城郭大系の縄張図からすると、下平城にあたるでしょうか?
ザビエル像
登城口石段の脇に大きなザビエルの石像があります。ザビエルは、この一宇治城で、天文18年(1549)に、島津家当主貴久に謁見し、日本で初めてキリスト教布教の許可を得たという(別の説もある)。
空堀と井戸跡
駐車場のところの登城口から石段を登って、2段目の平坦地に空堀地形があり、その中に石組みの井戸がある。一宇治城には、自然の湧水が3ヶ所あり、井戸として使っていたが、その一つである。島津家当主貴久が入城する以前のもので、伊集院氏が居城のときに使ったものと思われる。 (現地説明板より)
中平城(中之城)
平とは山の中腹辺りをいい、神明城に登る中腹に上平城・中平城・下平城があった。神明城の北側を守るために、人工的に切り崩して崖を造り、僅かな平地を城として守ったところである。
ここは、登城口から登って3段目の平坦地であり、ここに「中平城」の案内板があったが、途中あった井戸跡などが残る平坦地も含めて、2段の削平地が下平城ということになるのだろうか?
日本城郭大系の縄張図からすると、ここは上平城で、途中の平坦地が中平城、駐車場が下平城のように思えるのだが・・・?
蔵跡から神明城方面を望む
蔵跡から、北の方を見ると、大規模な土壇が見える。神明城の一段下の土壇であり、腰曲輪といったところでしょうか。
神明城
神明城は、非常に広く、北東端には6階建ての展望台(写真奥)が建てられ、西端にはザビエル碑が立っている。神明城は、一宇治城の中で最も高い北端にある曲輪で、神明神社があったので、そう呼ばれていた。要するに、ここが本丸に当たるのでしょう。
展望台からの眺望
展望台から見下ろす眺望は素晴らしく、伊集院の町並みと、その向こうには桜島が見渡せる。
神明城の真下にも、整備されて綺麗な曲輪がある。
ズームアップ
桜島から煙が出ているのがよく見える。それにしても、鹿児島における桜島は存在感がありますねえ(*^_^*)。
ザビエル碑
天文18年(1549)9月29日に、ザビエルが、日本で初めてキリスト教布教許可を受けたのは、この神明城であったと推定され、昭和24年に、「丸に十」と「十字架」を組み合わせて、記念碑が設立された。
神明城東下の曲輪
神明城の東下にも曲輪があり、名前は分からないが綺麗に整備されている。この曲輪から神明城は、非常に高い崖で、しかも急勾配になっているが、その間には空堀が設けられている。
神明城東下の曲輪と神明城の急崖
神明城東下の曲輪は2段になっている。
石積み
何の為に築かれたのかは分からないが、神明城東下の曲輪の南端部には石積みがある。
神明城西下の空堀
神明城西下の空堀は北端まで延びている。但し、それが一般的な山城のように、竪堀になって山裾に落ちていっているかは分からないが・・・。