ドレスデン城(ドレスデン)

劇場広場からドレスデン城西翼館を臨む

かつて栄華を極めたザクセン王の居城

ドイツ語名

Residenzschloß

別称

宮殿レジデンツシュロス

所在地

ザクセン州ドレスデン(Dresden)

訪城日

2010/09/12

歴史等

927~929年頃、エルベ川東域のスラヴ族で、ザクソン出身のドイツ王ハインリッヒ1世が、この周辺を征服し、マイセンにアルブレヒト城の基となる城塞を築いた。
10世紀中頃、ドレスデンは辺境伯領マイセン(のちのザクセン選帝侯国クーア・フェルステントゥーム・ザクセン)の中核地となった。
1089年には、王族ヴェッティン家が辺境伯領マイセンを封土として受け、1200年頃、ドレスデンに辺境伯用の城塞が築かれた。
1464年、クーア・ザクセン(単にザクセンとも)はヴェッティン家の兄弟エルンストとアルブレヒト合同の統治となったが、1485年、ヴェッティン家は、エルンストのエルネスティーニッシェ侯系とアルブレヒトのアルベルティーニッシェ公系に二分され、エルンストはヴッテンベルクに移り、ドレスデンはアルブレヒト及び後代君主の町となった。
1547年、ザクセン選帝侯になったモーリッツは、ドレスデン城の拡張をした。
1694年、アウグスト・デア・シュタルケ(力強きアウグスト)と称されたザクセン公フリードリッヒ・アウグスト1世が選帝侯となり、1697年にはポーランド国王アウグスト2世ともなった。フランスのルイ14世を範とする王は、ツヴィンガー宮殿やフラウエン教会等々、次々と華美な緒館を築いた。
1806年、ザクセンはナポレオン保護下の「ライン同盟」の一国となり、王国制を執った。
1918年、王制の廃止により、ドレスデンは「フライシュタート(自由国)ザクセン」の主都となった。
第二次世界大戦時の1945年2月13・14日の2日間にわたる空爆によりドレスデンは焼野原と化し、約3万5千の戦死者を出した。
2006年のドレスデン800年祭を記念して、ドレスデン城と聖母教会フラウエンキルヒェが修築・再建された。
『現地購入ガイドブック・ベルリン(rahmel-verlag gmbh刊)他参照』

現況・登城記・感想等

かつて栄華を極め「百搭の都」とうたわれて、バロック様式の壮麗な宮殿や教会、貴族の館が建ち並んだドレスデンの街は、第二次世界大戦時の1945年2月13・14日の2日間にわたる空爆により焼野原と化したという。
しかし、1985年に音楽の殿堂「ゼンバーオーバー(Semperoper)」が再建されたのをはじめとして、1990年の東西ドイツ統合後、歴史的建築物の再建計画が一層推進され、「芸術と文化の都」の姿が甦った。勿論、ドレスデン城も見事に再建された。
エルベ川の南側がドレスデンの旧市街で、その川岸は「ブリュールのテラス(Bruhlsche Terrasse)」という名がついている。そこからエルベ川に架かるアウグストゥス橋(Augustusbruecke)と遊覧船、そして川向こうの新市街地の光景は眩しいような明るさがあり、何となくワクワクしてくる。
橋の南西にある劇場広場(Theaterplatz)の周囲は、圧倒されるような豪華な建物が囲んでいる。その南東部に建つのがドレスデン城である。
ドレスデン城をはじめ、それらの建物は、近時の再建によるにも関わらず、まるで中世の建造物であるかのように、黒ずんで貫禄充分だが、それは、建材であるザクセン産砂岩が鉄分を含んでいるからだそうだ。
ドレスデン城は、城というよりも宮殿で、ドイツの城の種類でいう「Schloss(シュロス)」或いは「Residenz(レジデンツ)」と呼ぶべきであろうし、ドイツ語名も「Residenzschloß」である。
アウグストゥス橋から旧市街へ続く道は、広場「シュロスプラッツ(Schlossplatz)」を通り、宮殿の中央門館「ゲオルゲン・パウ」へ出る。
ゲオルゲン・パウから左(東)へ行くと、欧州最古の武芸競技場であった「シュタールホーフ(Stallhof)」があり、その外壁には、2万5千枚のマイセン磁器のタイルで出来ている高さ8m、長さ101mの「君子の行列(Der Furstenzug)」という壮大な壁画がある。1123年から1904年までのザクセン君主の騎馬像や、時代を飾った芸術家ら総勢93名が描かれている。この長壁画は、1945年の爆撃でも何ら損傷を受けなかったという。
壁の裏側は、旧選帝侯厩中庭があり、「ランガーガング」と呼ばれる長い廊下がある。
(2010/09/12登城して)

ギャラリー

ブリュールのテラス(Bruhlsche Terrasse)
ドレスデンは、エルベ川を挟んで北側が新市街、南側が旧市街に分かれている。「ブリュールのテラス(Bruhlsche Terrasse)」という名がつけられた南岸は多くの人で賑わっている。写真手前は城館ゼクンドゲニトゥーアのファッサード、後方に旧王室芸術アカデミー校の丸屋根が見える。
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ブリュールのテラスからエルベ川を望む
エルベ川に架かるアウグストゥス橋(Augustusbruecke)と遊覧船、そして川向こうの新市街地の光景は眩しいような明るさがあり、何となくワクワクしてくる。
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劇場広場(Theaterplatz)から望むカトリック旧宮廷教会(左)とドレスデン城
劇場広場の周囲は、圧倒されるような豪華な建物が囲んでいる。
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劇場広場から音楽の殿堂「ゼンバーオーバー(Semperoper)」を
建設者ゼンバーの名を冠するこの劇場は、1816~26年の建設である。1945年の爆撃で灰燼と化したが、1985年に再建された。広場の中央にそびえる騎馬像は、この劇場の発注者のザクセン王ヨハンである。
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中央門館「ゲオルゲン・パウ」
アウグストゥス橋から旧市街へ続く道は、広場「シュロスプラッツ(Schlossplatz)」を通り、宮殿の中央門館「ゲオルゲン・パウ」へ出る。当門館はザクセン公ゲオルク・デア・ベルティゲ(添え名:髭面の者)に由来し、後期ルネッサンス様式の居館として建てられた(1530年の起工)。そこから左(東)へ長壁画「君子の行列(Der Furstenzug)」が続く。
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君子の行列(Der Furstenzug)を西側から
ゲオルゲン・パウから左(東)へ行くと、欧州最古の武芸競技場であった「シュタールホーフ(Stallhof)」があり、その外壁には、2万5千枚のマイセン磁器のタイルで出来ている高さ8m、長さ101mの「君子の行列(Der Furstenzug)」という壮大な壁画がある。1123年から1904年までのザクセン君主の騎馬像や、時代を飾った芸術家ら総勢93名が描かれている。この長壁画は、1945年の爆撃でも何ら損傷を受けなかったという。 
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君子の行列(Der Furstenzug)を東側から
「君子の行列(Der Furstenzug)」は、1873~76年、画家ヴィルヘルム・ヴァルダーによる作で、当初はズグラッフィート画であったが、化粧彫りの損耗がかなり早期に現われたため、1906年に2万5千枚にもおよぶマイセン産の磁器タイルに転写されることになったという。
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アウグスト・デア・シュタルケ(力強きアウグスト)
壁画には、各君主の在位期間や添え名も記されている。添え名の緒例を挙げると、デア・ライヒェ(富める者)、デア・シュトライトバーレ(好戦者)、デア・ザンフトミューティゲ(温厚なる者)、デア・ギューティゲ(善良なる者)などがあり、また、面白いものにデア・ゲビッセネ(噛まれた者)といったものまである(笑)。
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㊧厩中庭への門、㊨ランガーガング
長壁画の裏側には旧選帝侯厩中庭があり、「ランガーガング」と呼ばれる長い廊下がある。

フラウエン教会
2005年に再建され、蘇った教会「フラウエン教会」です。戦争の悲惨さを伝えるため壊れたままの姿だったのですが、住民の強いリクエストにより1994年から再建が始まり見事な姿で蘇りました。今はこのフラウエン教会は旧市街のシンボルになっています。
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フラウエン教会内部
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コメント

atobe kiyoe(2014/10/06)

ドレスデン城の庭園の写真があるとよかった

タクジロー(2014/10/09)

そのとおりなんですがねえ(/。ヽ)。

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